なぜキリスト教文化は花開いたか


               去年の光風会展で心に留まりました。やはり絵画は素晴らしいですね。
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                                         神との交わりの回復を (下)
                                         第Ⅰヨハネ1章1-4節


                              (3)
  さて、ヨハネの手紙は今日の私たちに何を語ろうとしているのでしょう。むろん今日でも、それは交わりです。交わりということは、自分に閉じられた閉鎖的生活でなく、隣人に開かれた他者に心を開いた生活です。

  アメリカ経済が世界に及ぼす影響は甚大ですから、その財政の崖に世界が注目していました。オバマさんは世の富裕層にもっともっと負担してもらいたかった。しかし、上院、下院のねじれから充分できなかった。彼の願いは富裕層がもっと貧しい隣人に心を開いて欲しかった。心を開くとは、ここではガマ口をもっと大きく開く生活のことです。

  言葉を変えて言うなら愛です。自分に閉じられた生活でなく、他者のことを思いやったものにならなくちゃあならない。交わりをもって説き始めるヨハネの手紙ほど、愛について集中的に語られる手紙はないのは、当然です。

  すなわち、キリスト教は宇宙の根源であられるキリストとの交わりによって、必然的に外に向かう生活であるということです。信仰は内面的、内向的、実存的な面を持ちます。しかしそれは内面にこもる内向でなく、内面に命を与えられるから外へと向かうものであるということです。

  キリストが与える内面生活は、隣人へと、他者との新しい生活のあり方へと、交わりへと向かいます。

  私の隣にいる隣人や他者、この惑星に住んでいるすべての他者との新しい存在のあり方を創造していくものになるということです。今日は申しませんが、これは全被造物との共生、共存というところまで伸びていくあり方です。

  また、イエスは弟子たちと1対1の関係を作られただけではありません。イエスを中心とした弟子集団は、イエスの周りを12弟子たちが囲み、その周りを群衆が取り囲む、同心円的な形を作られました。それはイエスご自身が全ての人に開かれた隣人としてのあり方をなさったからです。

  また、イエスは弟子たちを2人ずつペアーにして派遣されました。互いに補い合い強め合うからですが、それだけではありません。2人の関係、相互の関係性自体が世に伝えるイエスのメッセージであったからです。命である方を中心とした交わりに真理が住んでいる。それを伝えるためです。

  永遠の命であるキリストにあっての交わりということから、話が発展していますが、この交わりはやがて、民族や文化を超えて行きました。当然です。多文化・多民族であるにかかわらず一つだという、これまで地上の歴史でなかった驚くべきところまで発展して行ったのです。しかもローマ統一のような強権によってではありません。

  古代のローマ社会と比べるとき、キリスト教が実現した自発的な集団の形成、それが教会でしたが、それは画期的なものを生み出したのです。もしキリストが世に来られなかったら、こういう歴史や文化は生まれなかったでしょう。

  そして、やがてキリスト教徒たちは、教会における民族や文化の多様性を超えた共に生きるライフスタイルを、実社会の中に翻訳して普及させていくのです。すなわちこの世のあり方を、キリストにあって作り変え、変革していったのです。

  「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― この命は現れました。」

  初代教会は、イエスの中に神ご自身の命、永遠の命を見たのです。抽象的な形で見たのではありません。聞き、見、触れうる具体的な現実として、イエスの中に永遠の神を発見したのです。

  そしてこの方を、他の人たちと分かち合おうとした。それが「私たちが見また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」ということです。

  この命を伝える目的は、命ある交わり、コイノニアを作り出すためである。この命に与り、この命を分かち合い、分かち合われた命ある関係を、共に生きた関係を作り出すためですというのです。

  三位一体論というと難解なキリスト教教理です。しかしこの手紙では三位一体ということも決して難解な教理ではありません。そうではなく、神は父と御子と聖霊の交わりである。愛をもって、共に生きること、交わりに真理がある。それは私たちの神の本質であるということです。神の本質と交わり、三位一体の神と絆。それは根源的な所に根ざす交わりであり絆です。

  だから、三位一体の神を信じる私たちは、隣人と分かち合うように召されているのです。先ずは同じ信仰を持つ者たちと、だがそれをも超えて、この創造された世界の中心に、中核におられる神のみ心を映し出すために、交わり、分かち合いへと召されている。

  イエスはナザレで30年間の隠れた生活をされました。目立たない生活です。木材を切り、釘を打ち、人々の助けのために使い易い家具をこしらえ、民家の破れを修繕し、黙々と働かれました。当たり前のことに心を込め、優しく人々に仕える生活です。この具体的な日常的な愛の生活なしには、イエスのメッセージは虚しかったでしょう。

  ある人の言葉をもって終わります。「愛とは特別な、英雄的なことをすることではなく、当たり前のことを、優しさを持ってすることである」(J.バニエ)。キリストにある交わりは、具体的な生活の中で優しさを持って生きることだと言っていいでしょう。

  私たちがイエス・キリストを信じるのは、神との交わりを回復されるためです。至ってシンプルですが、これほど本質的で一人ひとりに根源的なことはありません。ここに人生でなすべき、個々人の最も大切な事業があります。

  そして一人一人に根源的であるこの交わりが、外に向かい、隣人に向かって交わりとなって開かれていく。イエスは個人生活と社会生活の鍵になられたのです。

        (完)

                                          2013年1月6日



                                          板橋大山教会   上垣 勝


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