聖書と遊び心
不二家でカルボナーラを注文しました。「大中小があればいいのに…。後でマロンパフェも頂くことになっているから」ですって。
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神との交わりの回復を (上)
第Ⅰヨハネ1章1-4節
(序)
新年あけましておめでとうございます。もう6日目を迎えて、この年をどう生きるかお考えでしょうが、この礼拝の時も、一年をどう生きるかを考えることに役立てて下さればと思います。
主は共におられますから、少しも恐れる必要はございません。人生は競走ではありません。勝敗ではありません。スポーツの時代ですが、人生はスポーツではありません。たとえ困難や試練を抱えても、それを持ちつつそれとどう向き合い、どう担いでいくのか。一番後ろでもいい、それをどう担って生きるのか。それが大事です。先頭もどん尻も区別はないと思います。自分の十字架をどう負って生きるかです。
(1)
さて先程の聖書に、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」と、理解しづらい言葉がありました。
子どもは謎々遊びが大好きです。幼稚園児や小学生はバス遠足で出かけると、決まってバスの中で謎々遊びが出て盛り上がりますが、新春早々、私たちも謎々遊びのような言葉を耳にしました。
著者は、遊び心をもって、ユーモアをもって書き出したのだと思います。聖書は真面目一方なものという見方は当たりません。聖書全体では歴史があり、物語があり、手紙あり、詩あり、人生訓、祈り、預言、男女の恋歌もありというふうに、多岐にわたった幅もゆとりもあるものです。しかし、この手紙は遊び心を持った書き出しですが、全体の内容は聖書全体と同様、人生と社会の本質に関わるものです。
「初めからあったもの」とは、今日は幸い司会者が錯覚してヨハネ福音書1章を読み出されて有難かったのですが、ヨハネ福音書の冒頭で、「初めに言葉があった」と言われているのと同じ言葉がこの手紙の冒頭でも使われています。これは、天地創造の初めからあったという意味です。そんな昔から存在していたのに、それは、「私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」だというのですから、謎々のような語り方です。
「聞いたもの」とは、それについて聞いただけではありません。私たちがそれから直かに聞いたものという意味です。また、それは単に目で見ただけでなく、「よく見て」とあるように、じっくり見守ったものであり、手でも触れたものだというのです。
この謎めいた言葉に続いて、1節の終わりで、「すなわち、命の言について」と語り、「この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」と述べています。
初めからあり、聞き、注視し、手で触れたものは、「命の言(ことば)」だというのです。「言」という漢字にゲンという字が充てられています。ギリシャ語のロゴスという言葉が使われているからです。ロゴスとは普通の言葉、言の葉ではありません。ロゴスというのは、英語でもロゴスとかロジックとかになりますが、ギリシャ哲学の用語です。目に見える現象の奥にある宇宙の理性、法則。宇宙の本質をなす生命力、知恵。宇宙を支配する理法、理論、論理といったものです。
要するに、ギリシャ人は宇宙の根源であり、宇宙の命の理法や法則をロゴスと呼びましたが、新約聖書はその根源なるお方こそキリストであると考えたのです。ですからキリストはロゴスである、ロゴス・キリストである。キリストが宇宙の命の理法だと語ったのです。
ですから2節は、「この命は現れました。(むろんベツレヘムで、ガリラヤやユダヤにおいてです)御父(おんちち)と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」と語るのです。
キリストは宇宙のロゴス、本質です。しかし本質であるが、死んだ本質でも命のない本質や理法でもありません。キリストは神と共に永遠に活きておられる命そのものであり、十字架で死んで復活される。その命が世に現れましたと言うのです。そして、私たちはその永遠の命を目で見たのです。手で触れたのです。お声、その謦咳に接したのですと語るのです。
すなわち、この1章の冒頭は、ベツレヘムで生まれ、卑しい飼葉桶の中に寝かせられた、宇宙の根源である方の誕生。この地上を歩かれたお方、声を聞き、触れもしたお方。世界で最初のクリスマスの次第を謎めいた言葉で語っているのです。
(つづく)
2013年1月6日
板橋大山教会 上垣 勝
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