二心のない人になりたい


                         12年末の大手町界隈
                              ・



                                          われらを導く主の言葉 (上)
                                          使徒言行録20章17-38節


                              (2)
  さて、彼はまずエフェソ滞在の日々を思い出しながら、私は、「自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身に降りかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」と語りました。

  パウロは、自分を偉大な人物であるとか、優れた人間であると思いませんでした。そういうことを証明しようとしませんでした。むしろ卑しく、愚かで、「全く取るに足りない者」と考えて、「涙を流しつつ」、懸命に「主にお仕えしてきた」のです。

  彼は偽ったり、奢ったり、反対に取るに足りない人間の振りをする人間ではありません。キリストに砕かれた人ですから、心の底から主のみ前でそう考えて生きたのです。二心がない。

  二心がないことは大事です。私は自分が本当の意味での二心のない人間になりたいと思います。意思が明確で気負わない、素朴な心を持ちたいと願いますが、なかなかそうなりません。

  彼は他の人と比較して生きるのでなく、キリストの前に自分を置いて生きていましたから、エフェソの人たちの前でも、謙遜そうな振りをする、そんなポーズをすることなど論外だったのです。

  そして語りました。「役に立つことは1つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改と、私たちの主イエスに対する信仰とを、…力強く証してきたのです。」

  信仰は何ら強制ではありません。全くの自発です。自発的な信仰は、イエスとの魂の出会いが基になっていますから悔い改めを伴います。だがどんな過去か、どんな罪か、問いません。しかし、それとの分離を、方向転換を意味する悔い改めによって、信仰の歩みは真実になります。キリストへの誠実になります。

  過去との分離を、方向転換を意味する悔い改めがあるとき、どんなことが起ころうも耐え、変えることのできない状況下に置かれて、敢えて耐えることも忍ぶこともできるでしょう。神がその力を授けてくださるからです。委ねることのできる唯一の方がおられるゆえに、それが出来るのです。

  パウロが、「神に対する悔い改め」と、「主イエスに対する信仰」を力強く説いたのはそのためです。そういう命ある信仰に生きて欲しい。

  そして23節にあるように、自分はこれからエルサレムに行くが、「投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げています。…しかし、自分の決められた道を走り通し、また、主イエスから頂いた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と言って、「もう2度と私の顔を見ることがない」と語ったのでした。

  彼は、ユダヤ教時代に犯した数々の罪を自覚していました。キリストの敵に回って働いていた時代もあります。その意味で「罪人のかしら」です。しかし、自分のことだけでなく、世に満ちている暗いことや闇、嫌悪すべき事や絶望的な有様、人間の大いなる罪や悪を至る所で見て来ました。遠目では素晴らしいと思って近づいてみると、そこに大きな問題が隠れていたり、意図的に隠されていたり、悩みが潜んでいたりする状況です。彼は、自分も含め、「善を行う人はいない。ただの一人もいない。舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある」と、詩篇を引用して語ったこともありました。

  だがそのような罪や悪があふれる世界の中で、「神の恵みの福音」を証しできさえすれば、希望の福音を、赦し、命を与えるキリストの喜びの福音を力強く証しできさえすれば、この命は惜しくはない、本望だと吐露したのです。

  それは罪人であるパウロ自身に希望を授ける福音であったし、他のすべての人にも希望を授ける福音だからです。

  「神の恵みの福音」は、人々に勇気を与える源です。希望を授け忍耐をも授けます。この唯一の希望の源が人にある時、そこから新しく始めていくのに必要な力を、何度も繰り返して汲み取ることができるでしょう。

  さらに28節で、長老たちにこう願い、勧めました。「どうか、あなたがた自身と、群れ全体とに気を配ってください。」自分のことばかりの個人主義ではなく、群れ全体のことに心を配ることです。そのようにして下さい。そして、「聖霊は、神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督に任命なさったのです」と述べました。

  教会とは何かです。教会とは、ギリシャ語で「エクレシア」と言うのは、多くの方がご存知でしょう。神が呼ばれた民。呼び集められた民という意味です。教会、神の民は、神の声に耳傾け、神は今日(こんにち)何と言っておられるか、その言葉に聞きつつ歩む民です。

  言葉を変えて言えば、神の民は喜ばしい福音のもとに集められた人々です。その喜ばしさは、「神が御子の血によってご自分のものとなさった」喜ばしさです。前の口語訳では、「神が御子の血によって贖い取られた」喜ばしさ、私たちを、血を流すまでに愛して神のものとして下さった喜ばしさです。

  しかし、世の中にある教会の現実は、時にはイエス・キリストの存在を侮辱するような姿になることさえあります。パウロは29節以下で警告したのがそう言う姿です。「私が去った後に、残忍な狼どもがあなたがたの所へ入り込んで来て荒らすことが、私には分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。」まさに、キリストの存在を侮辱するような姿になることさえあります。

  しかし、です。教会がキリストの血によって贖い取られた存在であるとき、「教会はイエス・キリストご自身と同様に亡びることがなく、その本質は彼ご自身と同様に失われることがない」(雨宮栄一)のです。いかなる力によっても消されることはないのです。

  教会というのは人間によって成っていません。無論人間が集まっています。だがその本質において、キリスト同様に決して滅びない本質を頂いているのです。永遠性を宿しています。地上性を持っているが、永遠性を頂いている。

  「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会」とは、そういう本質的な命を内に頂いているという意味です。

  そしてまた、私たちが神に呼ばれて集められたということは、神に愛されているということです。また、生きているのは偶然に存在しているのではない。神から命を預かっている、貸与されているということです。従って、一人で生きているのではありません。私たちの足元に、神がおられます。

  しばしば申しますが、エジプトから国境を越えてイスラエルに入ったことがありました。国境までは渺々たる恐ろしい程の砂漠が続いています。タバに国境検問所があって、そこで入国検査を済ませてイスラエル側に出た途端、辺り一面緑の森が広がっていました。驚きました。数メートルで砂漠が緑の沃野になる訳がない。で、車の中から木々の根元を見ましたら、すべての木の根元にホースが来ているじゃあありませんか。

  その時、ハッとしました。このホースをさっと取られたら一挙に木は枯れてしまう。自分も神が命のホースをサッと取られたら、すぐにもこの世にいなくなるだろう。ここにいらっしゃるAさんは100歳まで生きるんだと言っていらっしゃるけれども、神がサッと命のホースを取られるかも知れない。私も一緒です。

  また、キリストの血で贖い取られたということは、私たちは自分の価値を、証明しようと力む必要はないということです。他人と隔てを築く必要もないということです。恐れる必要も、自慢する必要もないということです。そういう所にいつまでもいるのでなく、目を上げ、キリストを見上げて、幼子のように二心(ふたごころ)なく進んで行けばいいということです

  パウロは、こういうキリスト教会というものの本質に、役員である長老たちが、目覚めてくれるように、心を留め続けてくれるように、またキリストに愛されている自分自身に目覚めてくれるように、「どうか、あなたがた自身と、群れ全体とに気を配ってください」と依頼したのです。

  無論これは今日の私たちすべてにも願われ、依頼されていることです。


       (つづく)

                                        2012年12月30日



                                        板橋大山教会   上垣 勝


       ・ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/ 

       ・板橋大山教会への道順は、下のホームページをごらん下さい。
                   http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/