鑑真和上とパウロ


                           2012年末大手町
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                                          われらを導く主の言葉 (上)
                                          使徒言行録20章17-38節


                              (序)
  今日は今年最後の礼拝を迎え、明日でこの一年を閉じようとしています。この一年は、どういう年であられたでしょう。先ず、色々ある中でも主がお支え下さったことを感謝致しましょう。また信仰の良い仲間を与えて下さったこと、家族や友人を与えられたことも感謝したいと思います。

                              (1)
  さて、パウロは今、3度目の長い伝道旅行を閉じようとしていました。それで、最後にエフェソ教会の長老たち、リーダーたち、私たちの教会なら役員たちにもう一度会おうとしたのです。

  彼はしばらく前、エフェソで3年ほど伝道したことがあり多くの思い出を持っていました。その間、2年にわたり毎日ティラノの講堂で論じて伝道が進展しましたが、大騒動も経験するという思い出の町です。この町は彼の伝道の一つの拠点となり、ここから美しい多島海エーゲ海沿岸部の町々や内陸部のコロサイ、ラオデキア、ヒエラポリスなどの町々へ、キリストの福音を届けたのです。彼一人じゃあありません。テモテ、アリスタルコ、ティキコなど仲間と一緒になされました。

  パウロは、エフェソ教会の人たちが、キリストを土台とした一つの家族であるという意識を持って伝道しました。また、教会の一人一人が、「心の内にキリストを住まわせて」生きること、キリストの愛に根ざし、その愛の上にしっかりと立つ者になるように励まし合って進みました。

  聖書最後に載せられている付録の地図8「パウロの伝道旅行」をご覧いただくと分かり易いのですが、エフェソ滞在後、パウロたちは海を越えてマケドニアに渡り、ギリシャに行き、それから再度ギリシャからマケドニアに戻って来ました。その頃、この第3回伝道旅行に区切りを付け、まだ行ったことがないローマで伝道したいと考えたのです。

  彼の伝道した地中海地域は日本近海の地形と違いますが、広さだけで比較しますと大体、日本、韓国、中国、そしてローマも含めれば台湾に及ぶ広大な地域です。鑑真和上(わじょう)が日本に来るのは700年代半ばですが、パウロはその700年も前に何度も中国と日本を行き来したということになるでしょう。それだけを考えても、圧倒されるような大変な人物です。

  それでやがてローマに行こうと決意して、10人ほどの仲間と相談しながら、合流したり別々に行動したりしながら、陸の旅、海の旅をして、このエフェソ教会がある小アジア各地に寄って伝道しながら、エルサレムへ上ろうとしていました。穏やかな船旅が出来る時期を考えて恐らく6月から8月を願ったでしょう。

  それで、この「パウロの伝道旅行」の地図の左上の点線のコースを通って、トロアスに至り、アソスに進み、今ミテレネに着いたのです。ここで一行はしばらく滞在し、数十キロ北にあるエフェソに使いをやって、教会の長老たちにミテレネに来てもらったのです。エフェソに寄っていると懐かしさの余りかなり長っ尻をすることになりかねず、エルサレム到着が遅くなってローマへの船旅が危険なシーズンになります。それで、自分たちが出向くのでなく、長老さんだけを招いて、言い残したいことを伝えようとしたようです。その時のことが今日の聖書です。

  この箇所を見ると、彼は、最初から長老たちに心を開いて自分の個人的なことも混ぜながら語りました。そのため彼らの心に強く迫るものがあったようで、別れ際に一同が膝まずいて祈る中で、36節にあるように、「人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した」のです。「特に、自分の顔をもう2度と見ることはあるまいと言ったので、非常に悲しんだ」のです。

       (つづく)

                                        2012年12月30日



                                        板橋大山教会   上垣 勝


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