勇敢なのは単純な服従


                    リオンの丘にある Villemanzy Residence からの眺め。
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                                        ファリサイ人のパン種 (下)


                                         ルカ12章1-3節


                              (2)
  上辺だけでない、本物の信仰者と申しました。ファリサイ人は表面を清めるだけです。形だけで、心の底から神を信じ仕えているのではない。どこを切っても、キリストの真っ赤な血が吹き出るようなという意味での本物ではない。舞台上で、観客に仮面劇を演じるようなものです。

  イエス・キリストは肉を裂き、血を流されました。私たちのために命を捨てて下さいました。そこに本物の愛がありました。それに応じるに、私たちが真実をもって応じようとしないでいいでしょうか。

  もし真実の心をもって応じないなら、キリストの十字架の死は無駄になってしまうでしょう。侮りとなるかも知れません。

  真実の心で応じれば、私たちは切磋琢磨されます。「あらゆる点において成長し、頭であるキリストに達するのである」と書かれていることが、私たちにおいても実現していきます。ファリサイのような偽物の信仰をいくら積み重ねても、「あらゆる点において成長する」という風になりません。

  カール・バルトが、ボンヘッファーの言葉を引用してこう語っています。「イエスの弟子がなすべき勇敢なこととは、ボンヘッファーが『単純な服従』と呼ぶものである。人間が自分に命じられたことを行なう際の従順は、単純である。すなわち、それは、自分に命じられたことを行なうということ以上のものではなく、それ以下のものではなく、またそれ以外のものでもない。…そのような従順だけが、イエスに対する信仰の勇敢な行為である。」

  命じられたことを行うのであって、それ以上でも、それ以下でも、それ以外でもない。そのようなイエスに対する単純な服従が、信仰の勇敢な行為である。大きな業や注目するような業をすることでなく、ただ単純にイエス服従する。それが時に神から大きく用いられ、歴史の転換点になる場合もある。だがそうでない場合もある。歴史に現れるその大小はいずれでもいい。ただ、単純な服従がどんな弟子をも切磋琢磨するのです。その時イエスの死が無駄にならないのです。

  それに対して、弟子たちがファリサイ人のパン種に侵され、偽善の僕になれば、イエスの死は無駄になってしまうでしょう。

                              (3)
  イエスは、弟子たちに忍び込みやすい偽善に注意を向けさせた後、おっしゃいました。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳に囁いたことは、屋根の上で言い広められる。」

  衆議院選挙と都知事選挙の結果が案じられます。危険な党が躍進するのが心配です。近隣諸国と故意にいざこざを起こして世論を誘導しかねません。故意に危機感を煽って自衛隊国防軍に変えて戦争ができる国にしようと考えている人々です。そうなれば年金や社会保障制度改革どころではありません。国防軍増強のために増税さえしかねません。そうなれば戦前の二の舞です。

  若い方々は、曇りのない澄んだ目をもって社会を見守って頂きたいと思います。語学のできる方は、外国の新聞を読むことで、日本の動きを諸外国はどう見ているか客観的に見て欲しいと思います。

  弁舌は爽やかでも、一般大衆への偽り、誤魔化しが垣間見られるのは一番危惧するところです。

  そのことはこれまでにして、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」とイエス様は言われます。偽善や誤魔化しはやがて必ず現れます。どんなに仮面をかぶっても、明るみに出されます。

  選挙結果を案じると申しましたが、しかし基本的に私は、神が歴史の中でなされることを信頼しています。10年、20年のことでなく、100年、1000年の歳月をかけて神がなされることです。

  どういうことかと申しますと、私たちはファリサイ人の偽りや誤魔化しを暴き立てる必要はありません。正義漢ぶって彼らの偽善を暴くために奮闘するのでなく、自らのあり方にこそ注意しなければなりません。

  まことの人にしてまことの神。イエス・キリストを証しすれば、自ずとファリサイ人の偽りは明らかになるのであって、本物を置けば模造品の真珠はどこか嘘っぽさが暴露されます。

  ですから私たちに必要なのは、社会を冷静に見つめつつも、悪をあばき罪を指摘することより、自分自身が真理に向かい、イエス・キリストに向かって真剣に生きること。また、イエス・キリストを力を尽くして証することです。

  家の中で言ったことも暗闇で語ったことも、明らかにされるとは、日常生活の1コマ、1コマでの言葉や態度、愛することや大事にすること、闇の中にも希望を見つける行為や励ましたり感謝すること。それらはやがて明るみに出され、屋根の上で語られるでしょう。

  世には悪も罪も満ちています。個人的なものから社会的集団的なものまであります。だがそれらはやがてキリストが一掃されるでしょう。

  イエスは譬えを用いて言われました。あまりせっかちになって、毒麦を抜こうとするな。刈り入れの時、麦も毒麦も集められ、毒麦は束にされ火にくべられる。今は根が絡まっている。毒麦を抜こうとして、良い麦まで抜くだろう。だから、せっかちにならず、時の熟するのを待て。

  自分自身についてもそうです。自分をせっかちに裁かないことです。裁き主はイエス・キリストのみです。「イエスは主なり」とは、裁きのことは一切あなたにお委ねいたしますという告白です。この方に、本質的な意味での裁きを一切委ねてしまいましょう。明け渡していきましょう。

  すると裁き心から解放されます。裁くことから自由になり、肩の荷がおります。すると私たちの顔が自然と輝くでしょう。裁きの顔は輝いていません。でも裁きのことは神に委ねる。すると明るくなるでしょう。せいせいした顔でキリストに従い、希望をもって進んでいきましょう。

       (完)


                                        2012年12月16日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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