ファリサイ人のパン種


                 リオンに行けば Villemanzy Residence をお勧めします。
        リオンの西の丘の中腹にあり眺望がよく昔は修道院でした。地下鉄の便も良く料金も手頃でした。
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                                        ファリサイ人のパン種 (上)


                                         ルカ12章1-3節
         
                              (序)
  今日の最初に「とかくするうちに」とありますが、イエスはすぐ前の11章で、ファリサイ人と律法学者の急所を突いて鋭く批判されました。すると彼らはイエスに激しい敵意を抱いたとありました。その後、そうこうするうちにイエスの周りに、「数え切れないほどの群衆が集まって来て、足の踏み合うほどになった」という訳です。

  支配者や知識人たちに大胆に立ち向かわれたので、群衆はイエスの態度に感銘を受け、ここに信頼できる預言者的人物が現れたと考えたのでしょう。多くの鉄粉が磁石に引き付けられるように引き付けられ、イエスが行かれる所には、足の置き場がなくなるほど大勢が集まったのでしょう。

                              (1)
  すると「イエスは、先ず弟子たちに話し始められた」のです。この先ずは、今日の箇所で大事な位置を占めています。決して見逃せない先ずです。余りに多くの人が押しかけ、弟子たちがいい気になって足を掬われないためでしょう。弟子たちはまだまだ信仰の内実が伴っていません。にも拘らず、ちやほやされて、自分たちもいっぱしの人間であるかのように思い上がればイエスの弟子集団の働きは無に帰すでしょう。

  富裕な家庭で、子供たちがおかしくなるケースがあちこちで起こっています。実力がないのに、豪邸に住み、やがて権力を持ちます。それに加え、何でも金で解決できると考える親の姿勢を引き継ぐと、問題を更に悪化させます。

  弟子たちも、こういう時に「偽善」の誘惑が忍び込む危険があります。そこで、「先ず」弟子たちに注意するため彼らを集めて、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と厳しくおっしゃったのでしょう。

  よく確かめてください。イエスはファリサイ人に注意せよとおっしゃいましたが、ファリサイ人を批判せよとか、ファリサイ人の批判者になれと命じておられません。そうではなくて、あなたがた自身が彼らのようになるな。彼らのようにならぬように自分自身に注意せよとおっしゃっているのです。あなたがた自身が、外側だけの中身のない信仰者になってはならないと厳しく注意されたのです。

  「パン種」というのはイースト菌のことです。手作りパンが流行っているそうですが、パン種を、練った粉に入れて温度を加えて発酵させると、いつの間にか全体が膨らんでパンができます。初めて見たときは、ほんとに不思議でした。僅かなものがパン生地を何倍にも膨らましたのです。

  弟子たちに警告されたのは、将来弟子たちに起こる危険の1つはファリサイ人が持つ偽善であるということです。偽善は僅かであっても全体を膨らませる危険な力です。

  偽善は聖書のギリシャ語でヒュポクリシスと言い、偽善者はヒュポクリテースと申します。昨年参りました、フランスのオランジュに残っている約2千年前の巨大な野外劇場はヨーロッパで最もよく原型を残している野外劇場で、世界遺産になっています。以前、この劇場について触れましたので、今日は劇場自体には触れませんが、イエス時代に造られたこの野外劇場では、ギリシャの仮面劇が演じられていました。

  仮面劇の主演俳優、役者がヒュポクリテースと言われました。偽善者と同じ言葉です。役者ですから当然ですが、彼らは仮面をかぶって主人公に見せかけるわけです。実際の俳優が偽善者だと言っているわけではありませんが、俳優は仮面をつけて主人公に成り済ますわけです。

  そのことから偽善者をヒュポクリテースと呼ぶようになったようで、辞書によれば、偽善とは、宗教的には神を観客席において仮面劇を演じようとすることとあります。神をも騙そうということでしょう。内側のことを外のことにすり替えて、形の上で手続きや仕草を完全に行いさえすれば、それでよしとするのです。それが偽善、ヒュポクリシスです。

  弟子としての中身を失い、ただ弟子を演じているだけなら意味をなしません。だから多くの群衆が足の踏み場もないほど集まって来た時に、イエスは、群衆の方に向かわず、先ず弟子たちに、「ファリサイ人のパン種に注意しなさい」とおっしゃったのです。

  言い変えれば、弟子たちが本物の弟子になることです。上辺だけでない本物の信仰者に育つ。いつどこを切っても、キリストへの感謝や信仰の喜びの血が吹き出るような、偽りない弟子として生きるようになることです。本物の役者というのは芸達者だけじゃあなく生き方が本物であるということです。すると自ずと深みある味が生まれます。人の味です。

  皆さん、教会員である方も、客員である方や求道者である方も、この教会では本物の信仰者になるのを目指しきましょう。それを求めて頂きたいと思います。本物の信仰者というのは、信仰を恥じない人です。パウロは、「わたしは福音を恥じない」と言っていますが、キリストを恥じず、求めがあれば証する。

  上手下手は問題ではありません。キリストを信じていること、その感謝を淡々と述べるだけでいいのです。

  本物の信仰者と申しましたが、ご高齢の方々にお願いがありますが、ぜひ日々祈ることを使命にしていただきたいと思います。何もなさらなくていい。椅子に座ってでも、ベッドに入ってでもいい。信仰の仲間のために、忙しい人たちのためにも、困難を抱えた人たちのためにも、日々祈って頂きたいのです。教会のため、伝道のため、教会に来ておられる方々のお名前を挙げて、お祈り下さることによって、大山教会は祈りが溢れている、漲っている教会にして頂きたいのです。祈りを使命にしていただきたいのです。

  それで今日は後で、80歳以上の皆様に「祈りの名前のカード」を差し上げたいと思います。

  古来、教会の高齢の方は、祈りに励むことによって、教会の足腰を強くしました。ルカ2章に、84歳の高齢の婦人が出てきます。彼女は若くして嫁ぎましたが、7年後に夫を亡くしました。今は84歳になっていますが、断食と祈りで神に仕えていました。そこに教会を支えるご高齢の方々の祈りの原型があります。

  祈りの言葉はどんなに単純であってもいいのです。そんなことはイエス様は問われません。ただ祈りの真実です。ぜひ、大山教会のため、ここに来ておられる方々のために日々祈って頂きたいと思います。

  信仰は年数ではありません。つかず離れずの状態では信仰的にも、人間的にも折角伸びる力をお持ちでも、成長しません。求道者の方は、時期が来れば洗礼をお受けになり、教会の一翼を具体的に担う者になって頂きたいと思います。急ぎませんが、その日が訪れるのをぜひご自分でお祈りしてください。イエスが、見物人のような群衆でなく、「先ず弟子たちに」語られたのは、具体的・実際的にイエスの体の一部になり、イエスの宣教を担う一翼になってもらいたかったからです。

  キリストに仕えるには、キリストの体なる教会に、具体的に奉仕することでキリストに仕えるのです。キリストとの具体的関係が大事です。

  弟子たちはこの後も躓きました。イエスを見捨てて逃げることだってありました。しかし、そのような弱さや失敗や恥もやがて用いられて行っています。パウロが言っていますが、「神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働」いてくださるのです。ぜひ神を愛してください。

  客員の皆様も、お客さんでなく、責任を担うキリスト者として、キリストの体なる教会の一つの肢として、具体的に担うようになられる事をお勧めします。

  パウロはコリントで1年6ヶ月伝道しました。この期間をどう見るかです。前の口語訳聖書は、「1年6ヶ月、腰をすえて神の言葉を宣べ伝えた」と訳していました。1年6ヶ月の滞在でも腰を据えた奉仕が可能だということの証左です。「一日は千年のごとし、千年は一日のごとし」とあります。腰をすえなければ千年経っても一日の値打ちもないでしょう。だが腰を据えさえすれば、一日であっても千年の値打ちある奉仕ができるということです。

       (つづく)


                                        2012年12月16日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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