律法学者の不幸


          初めて会ってもテゼの仲間のスマイルは自然でいいですね。長く友情が続きます。
                  この中から今年、国境を越えてカップルが生まれました。
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                                           律法学者の不幸 (下)
                                           ルカ11章45-54節


                              (2)
  イエスから急所を突かれ、彼らは激しい敵意を燃やしました。質問を浴びせ何か言葉尻を捕らえようと狙っていたと53節、54節にありました。憎悪を募らせて牙をむき出し、難問を浴びせかけて今にも掴みかからんばかりになったのです。

  夏には都会でも尺取虫を見かけます。体を縮めたり伸ばしたりして、葉っぱを先へ先へと登っていきます。どなただったか、「尺とりの屈するは伸びんことを求むるなり」と書いていました。律法学者であっても、砕かれて、屈したことが次の成長に繋げることができた筈でした。だが彼らは激しい敵意で、成長の糧にしなかった。自らの成長を放棄した。誠に残念です。

  私たちはそうであってはなりません。砕かれることが成長のきっかけです。大変かもしれません。しかし、大変な時は大きな変化が起こる時でもあります。

  イエスは批判のための批判をされたのではありません。イエスご自身がいかなる人とも連帯し、重荷を負う人と共に生きられました。時には、耐えるのが難しい隣人とも共に生きようと呼びかけ、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と語って実際にそう生きられました。「共に生きる」、そこに主なる神、神の国の御心があると説いて生きられたのです。そこからの批判です。

  イエスは知識の鍵を与えるだけでなく、鍵自体にもなられました。「これは、あなたたちのための私の体である。これは、私の血による新しい契約。」やがて十字架で磔になって多くの人のために血を流し、体を裂かれる、根源的な愛の徴として、弟子たち、私たちにご自分を鍵として渡されました。そこに人々と共に生きるイエスの姿があります。

  イエス・キリストは律法学者との対話を通して、何をご覧になっていたのでしょうか。何を注視されたのでしょう。言ってみれば、人の上に立ち、人を指図し動かそうとする、人間が持つ根源的な欲望です。それは律法学者同士のしのぎを削る競争においても現れ、学派や分派、主流派や反主流派の熾烈な戦いにもなっていました。

  そこには、人の上に立ち、出来ればもっと上に立って、神にならなくても神の一歩手前まで登って人を支配しようとする人間の高慢があります。悪い意味での天上天下唯我独尊です。

  詳細な解釈に精力を注いで相手に勝とうとし、相手に勝っても自分では指一本も重荷を担ごうとしない。また、人には律法をあれこれ解釈して守らせ、自分は専門知識をもってあれこれ規則の網をかいくぐって逃れる。人には重箱の隅をほじくるが、自分には寛大。敵には極めてシビア、仲間には実にルーズにもなる人間というものの問題性が、彼らの姿に表れているのです。

  イエス様は、「上に立とうとする者は、仕える者にならなければならない」と弟子たちに命じられました。そこに福音があります。この点で砕かれ新しく歩み出すなら、大きな変化が訪れるでしょう。

  イエスの今日の言葉が厳しいのは、律法学者と私たちに警告しておられるからです。あなたが律法学者のような所に立っているなら、その足場は危険だと叫んでおられるのです。あまりに重箱の隅をほじくるような議論、愛を見失った議論。裁きの多い、口やかましい生活。赦しを忘れた、とんがった生活。「そこは危ない。ダメだ、災いが来る。不幸になる。律法学者よ、そこに立つな。離れろ。」その真剣な叫びが、今日の箇所の鋭い言葉になっています。愛の警告です。

                              (3)
  イエス様は、あなたを神に明け渡せと言われます。私は高校時代はカナズチで、力を入れずに水に身を任せば自然と浮くのに、怖がるから浮かない。水を信じるなら必ず水に浮くがそれが信じにくい。そんな私でした。

  バレーボールのダイビング・レシーブというのもできませんでした。体ごと飛び込んでボールを受けるのです。お腹で地面に滑り込んでボールを弾く。ホントは誰でもできることですが、ビビってしまう。そんなこと出来る筈がないと思うのです。それで高校時代にバレーボール部をやめた苦い経験があります。

  信仰生活でも神に委ねることが大事です。でも私は委ねるのが苦手なんです。現代は不安の時代で、先々まで読み過ぎて不安になる人が多くいますが、「明日のことを思い煩うな。明日は明日自身が思い煩うであろう」と、きっぱり決断しないと、思い煩いが僅かな隙間からどんどん侵入してきます。

  この間から、ネズミが牧師館のリビングに再び侵入して往生しました。どこを探してもネズミが侵入できる穴がないのに毎日糞を残して行って、ホトホト困りました。で、やっと見つけたのは、そんな場所に隙間がある筈がないガスレンジのフードの上の隙間でした。大工さんを恨みましたね。でも、工務店のHさんのがこの9月に突然亡くなられて。いい人だったのですが…。人生はほんとに分かりません。

  心の隙間から思い煩いが忍び込んで来ます。神に委ねて明け渡す。すると必ず平和が訪れる。

  色々申しましたが、イエスが来られ、福音を宣べ伝えられたのは、共に生きること以外ではありません。共に生きる道、連帯の道、愛の道こそ、人類の未来につながる希望の道であることを示されました。

  「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。もし死なば、多くの実を結ぶべし。」ここに命に至る鍵、真の知識の鍵があります。イエスはこの一粒の麦であられました

  「良き羊飼いは、羊のために命を捨てる」とも言われました。「羊のために」とは、羊に代わってということです。私たちを愛するゆえに、私たちのため、私たちの身代わりになり、呪いの木に架けられました。このお方において、まことの共生とは何か。連帯、愛とは何かが示されています。

  そして十字架という呪いの木に架けられることによって、勝利されたのです。すなわち、神がイエスを承認されたのです。イエスが生き、語り、働き、共に生き、苦しみを受けられた、その全ての連帯の業を義と認められたのです。

  私たちの信仰は、このお方を仰ぐことです。このお方が何をなされたかを知ることです。このお方に、人生と生活の知識の鍵があります。

     (完)

                                   2012年12月9日


                                   板橋大山教会   上垣 勝


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