許しは、私の毎日の奉仕


                       晩秋の日比谷公園から丸の内を見ました
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                                           律法学者の不幸 (中)
                                           ルカ11章45-54節


                              (1)
  さて今日の46節に、律法学者が「そんなことをおっしゃれば、私たちをも侮辱することになります」と言ったのに対して、イエスは、「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負い切れない重荷を背負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ」と語られたとあります。

  「背負い切れない重荷を背負わせ、自分では指一本も」と言われるのです。律法学者は十戒の細かい解釈をしてそれを細分化し、さらに細分化して生活に当てはめ、こうしろ、ああしろ、これをしちゃあいけない、あれをしちゃあいけないと指図する。微に入り細にわたって研究し指図する人々であったようです。だが一緒にその重荷を背負うことがないのです。研究し命令するが指一本触れようともしないのです。

  今、誰かの顔を思い出しておられますか。確かに指図される側はたまったものではないう。反対でもすれば、律法の専門知識で重箱の隅をほじくるような議論をして相手に有無を言わせない。それを飲ませようとする。

  普段の生活の中にもそんな人がいますね。指示的、命令的、断言的。時にまくし立てる。母親がそうなら子供はたまったもんではない。でも反対に成人した子どもがそうで、親が苦しんでいる家庭もあります。

  赦しがない。遊びがない。他者のために祈ることもしない。律法を厳しく適用することに情熱を燃やして愛がない。

  イエスは52節で、「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げて来たからだ」と言われました。彼らは救いへの知識の鍵を取り上げている。通せんぼしている。

  大昔の鍵は大量生産でなく、今のように誰でもそれを使えば開けられるようなものではありません。手作りのため1つ1つ癖があるので癖を知らないと開きません。チョッとした鍵のさじ加減が要ります。ましてや鍵を取り上げられたら、いかに中に入ろうとしても入れません。

  彼らは入ろうとする人を入らせない。自分も入らない。神のみ言葉を知識として扱うだけで、み言葉によって生きない。神のみ言葉に生かされることに最大の価値があり喜びなのに、それによって生かされようとしないのです。

  先週の37節以下のファリサイ人たちは、徹底して律法厳守をやってのけた人たちです。完全にやってのけたのです。それによって自分たちを他の者たちと区別し、分離し、選ばれた者という強い誇りと選民意識を持ちました。「ファリサイ」というのは分離するという意味です。

  律法厳守ができたのは、表面的に守って守っていると言っているからです。内面からではありません。心底からじゃあない。ですからイエス様は、あなたがたは「杯や皿の外側はきれいにする」が、「自分の内側は貪欲や邪ま」や汚いもので満ちているとおっしゃったのです。そういう汚れがあるのに威張っている。清いとも思っている。で、自分の汚れや弱さを神の前に持ち出そうとしない。正直でない。偽善なファリサイ人と言われるのはそこです。

  だが今日の律法学者たちは、表面的にも行おうとせず、指一本重荷に触れようともしない。

  何が問題でしょうか。最初に申しました共に生きることです。連帯して生きないということです。弱さや愚かさや足りなさや醜い姿も共に晒して、喜怒哀楽を経験しつつ一緒に生きるということをしない。お高く留まっているのです。

  信仰者がこうなら躓かせます。注意して自分を振り返らなければなりません。

  ボンヘッファーという人がこんなことを言っています。「キリスト者にとっての重荷の一つに隣人の自由がある。」隣人の自由が重荷。エッ、どうして?と思いますね。

  私たちは、「あなたの隣人を愛しなさい」と言われています。それはいいのですが、重荷なのは、隣人というのは自分の自由にならないからです。犬が好きなのはかなり自由になるからでしょう。ちょっと前に叱ったのに、すぐまた尻尾を振ってくる。それが可愛い。猫もある程度自由にできます。猫なぜ声ですり寄って来るとやはり可愛い。だが、夫も、妻も、息子・娘に至ったら決して自由にならないでしょう。ましてや隣人は自由にならない。主体を持っていますから、相手次第ではこっちが振り回されることもあります。

  彼はこう言います。「隣人の自由とは。その人の深い所の性質を形作っている全てのもの、長所、才能。それと共に、私たちに忍耐を強いるその人の弱さ、奇癖、彼との間で生じる摩擦、傷、反対などを意味する。隣人の重荷を担うとは、他者の被造物としての現実を受け入れ、承認し、さらに喜ぶまでにそれに耐えることだ。」

  喜ぶまでにご家族に耐えているでしょうか。ボンヘッファーは結婚していなかったんですね。結婚していたら、到底こんなことは言えないかもね。彼はその前にナチに処刑されました。

  更に言っています。「許すということは、人々への毎日の奉仕である。」

  「人々への毎日の奉仕である。」すごい言葉ですね。指一本動かさないのではない。体も心も使って奉仕する。毎日、自分は一方的に奉仕してます、させられていますと言われる方もおありでしょうか。

  律法学者の問題は、共に生きないという点です。一緒に連帯して重荷を負わない。イエスはその点を指摘されるのです。律法学者のように、知識を振り回しているだけじゃあダメで、実際に生きよとイエスは言われるのです。知識を振り回しているだけだと、「入ろうとする人々をも妨げる」ことになります。

     (つづく)

                                   2012年12月9日


                                   板橋大山教会   上垣 勝


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