闇を隠しちゃあなんない闇が大切


                   盛況だった北村裁判第2回口頭弁論報告集会(12月3日)
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                                            内から清める (中)
                                            ルカ11章37-44節


                              (2)
  イエスが、ファリサイ人たちは「薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである」と言われたとのも、同じです。これらは皆ハーブ類で、みな教会の庭にあります。ハッカはミントです。芸香はルーというハーブです。あらゆる野菜とあるのは色んな種類のハーブのことです。ルーは毒があるので今は食用にしません。

  ファリサイ人たちは、こういう神に献げるものの祭儀規則を作って、自分たちの立てた尺度を正・不正の尺度にし、それに合わないものを切り捨てました。厳しく裁いたのです。

  その究極の目的は、自分たちの判断、自分たちの規則や価値基準に民衆を仕えさせるためです。そこには、神への侮りが垣間見えます。真の神でなく、宗教教団が神の位置に立とうとしているからです。宗教自身が真理や神の敵になるケースもあります。

  イエスが、「あなたがたは不幸だ」、災いだと言われたのはそこです。ファリサイの最大の問題点は神への挑戦である点です。

  イエスが求められるのは、神にのみ栄光があるように。神が真に義とされますように。神の栄光が輝きますようにということです。だが彼らは自分たちの栄光、義を追い求めたのです。本当は清くないのに、人前で清さを振舞う術を心得ている。それは何が清いかを紛らわしくし、清さを脅かす原因になります。

  真の平和は、苦しみや屈辱や苦悩が自分にあるのを認めて、それを神様の前に持ち出し、その苦しみの中で神の慰めと力を授けられて、その困難を大胆に引き受けるところから生まれます。どんな苦しみも、それに立ち向かう神からの召命が授けられれば、平和をもってそれを担うことができるでしょう。

  マザー・テレサの宣教会が、あれ程貧しいインドの人たちの中に入って良い働きをしておられるのは、毎朝4時頃に起きて、先ずキリストの体をいただき、神の献身を受けているからです。キリストの恵みに与らなければ、平和をもって最も貧しい人たちの中に入って行けないのですと、シスターたちがおっしゃるのは本当だと思います。

  誰しも闇があり弱さがあります。人に知られたくないものもあります。だがその闇と弱さの最も暗いところにキリストが入って来て下さり、その場所から解決していただくなら力が湧きます。闇を神様に隠しちゃあなんない。むしろ闇の部分でキリストに出会うのです。

  「あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなもの、その上を歩いても気づかない」と言われましたが、昔の墓は土葬ですから、骨や腐った汚いものが満ちていました。比喩的に言っていますが、悩みや問題の核心部分が解決されなければ、何も力は出て来ないでしょう。臭い物に蓋をしていれば、それが解決されることも、力強い真の平和も出てきません。

  明日11時から、東京地裁の103号大法廷で北村慈郎先生の第2回口頭弁論が開かれます。アドベントという、闇の深まりゆく中でキリストの誕生を心から待つ喜ばしい待降節に、日本基督教団の今の執行部に対する裁判が行われるというのは、象徴的です。

  今の教団の執行部の人たちに平和がないのはそのためです。今、教団が負っている苦しみ、屈辱、苦悩を教団の広報誌である「教団新報」にさえ一切書こうとせず、隠しています。一般信徒に分からないように握りつぶしているのです。地方の牧師たちも蚊帳の外に置かれています。

  キリスト教会は本来ガラス張りです。でも、そうでなくなって来ている。

  先週は、仙台にボランティアに行ったことを申し上げました。その時会ったスタッフがポツンと言ったのは、自分の教会では教団の問題は一切知らされなかった。しかし、エマオのスタッフになって、全国から来る色々な牧師と会う中で、初めて教団で起こっている由々しい問題を知るようになったというのです。そうです。悲しいことに、執行部の牧師たちは、教団の問題を信徒に隠して、真実を告げないのです。

  牧師は羊飼いだと言われますが、本当の羊飼いは謙虚です。自分の限界を知り、立ち入るべきでない所には干渉せず、自分とは異質な賜物を持った人々の賜物を尊重するのです。自分と違う人たちの中にも、神が働いておられるのを見る目、それを持つのが真の羊飼いです。一般社会でも、職場でも、上に立つ人が下の者と考えが多少違うからといって弾き飛ばしていたら、職場は成り立ちません。異質な人がいたり、少し見方が違う人がいてこそ、職場は活気が生まれます。モノトーンでは詰まらないでしょう。

  聖餐問題で、北村先生の牧師職が剥奪された問題でも、北村先生に神が与えておられる素晴らしい賜物にもっと敬意を払って尊重するべきでした。ここにも、イエスが問題とされた外面的な規則と、内面的な浄不浄の問題が絡んでいます。外面的な問題よりも、もっと本質的なことに目を注げば、先生の持ち味が教団の中で生かされ、大いにお働きいただくことができたでしょう。そこに執行部の人たちの度量の狭さがあります。

  キリストの愛は全ての人に届いていますから、主の愛の広さ、深さ、高さ、長さを証するためにオープンで聖餐式をする教会があってもいいでしょう。それをしちゃあいけないという明確な規則があるわけでないし、聖書でイエスパウロもそういうことを一切言っていません。

  北村先生一人を狙い撃ちするために、わざわざ規則を変え、口裏を合わせ、準備万端整えて、北村先生の牧師職を剥奪したのです。これは人権問題です。イエスは、ファリサイ人たちの「内側に悪意」が満ちていると言われました。悪意ある嫌がらせです。いわゆるパワーハラスメントです。世間では通用しないことが、日本キリスト教団の中で起こって、裁判で問われているのです。これでは伝道できません。伝道に燃えるなんてできっこない。中身が腐っているのですから。

  教団側の弁護士は、これは信仰の問題だから政教分離の原則で公権力は取り上げちゃあならない、裁判に乗せてはいけないと頑張っていますが、そんな問題じゃあない。悪意ある嫌がらせです。「悔い改め」に導く信仰的配慮などと称していますが、それはどこにもありません。だからこそ、教団には教区がありますが、多くの教区が教団の決定に真っ向から異議を唱えているのです。

  「薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしてはならない。」イエスはそう言われます。正義の実行と神への愛。「これこそ行うべきことである」と言われるのです。規則を優先していればやがて信仰は行き詰まるでしょう。そういうキリスト教は愛がありません。儀式的律法的キリスト教に退行して行きます。後ろ向きになって行くでしょう。

  しかし、「正義の実行と神への愛」。これが行われる時、爽やかな風が吹き始めます。一人一人の人格が尊ばれ、人権が守られますから、みんなが元気になって活気づきます。神の栄光だけが讃えられますから、教団に一本筋が通ります。北村先生の問題を執行部はここから解決しなければならなかったのです。

  でも、私は諦めていません。招きの言葉は私たちに、「わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神」と語っています。主なるキリストの神は、決して私たちを見捨てられることはないでしょう。再び歴史を元に戻してくださると確信しています。

      (つづく)

                                   2012年12月2日



                                   板橋大山教会   上垣 勝


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