”津波の海岸ツアーに行きましょう”


                   若林区荒浜のボランティア基地はビニールハウスの中でした。
                               ・



                                            内から清める (上)
                                            ルカ11章37-44節

                              (1)
  今日の聖書の最初に、「イエスはこのように話しておられた時」とありました。これは当然、先週の33節以下の話を指しているでしょう。

  イエスはその所で、あなたの中に光が消えていないか調べなさいと言われました。あなたの命の光、命の力が弱く、乏しくなっていないかどうか。あなたの命に光が灯されるように生きなさい。

  また、ともし火は穴蔵や升の下でなく燭台の上に置く。部屋に入ってくる人を明るく照らすために、隣人を明るく照らすためにともし火はある。光の子として、明かりを灯すためにあなたは造られている。それを生きなさいとおっしゃったのです。

  こう話しておられた時、ファリサイ派の人からイエスは食事の招待を受けられた。すると、イエスはすぐそれに応じ家に入って行かれました。イエスは福音を伝えるために恐れず異質な人と対話し、出会い、どこへでも行かれたのです。

  と申しますのは、ルカ6章6節を見ると、既に律法学者やファリサイ人たちは、「怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合っ」ていたからです。イエスを招待したこのファリサイ人もそのことは分かっていた筈です。

  ところが、イエスは何ら悪びれず、すぐファリサイ人の家に入って行かれたのです。小心ではない、誰をも恐れない、堂々たるイエスの姿がここにあります。私たちの主はこういうお方です。

  「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」というのです。ユダヤ人たちは食前に身を清めてから頂きます。今日のような衛生上の理由ではありません。宗教上の理由、律法で命じられた宗教上の祭儀的清浄行為で、厳格にそれを守らなければなりませんでした。

  現在の日本は宗教が薄められていますから厳格でありませんが、本来、格式のある神社に行くと、まず手を洗い、口を漱いでからでないと、ガランガランと鈴を鳴らしてお参りしてはならない。お宮は聖浄な場所だとして厳しく守らせました。仕来りに従わない者は異端者のようにしました。だがユダヤではそんなものじゃあありません。その何倍もの厳しさです。

  だが、イエスは律法や規則を意に介せず身を清めることをなさらなかった。無防備でも、自由でもあられました。なぜなら、律法や規則は単に神との関係に至らせる手立てであり、人の取り決めであって、イエスは神の子であり、そういう手立てなしに父なる神との直接の関係の中で生きておられたからです。神を中心とした、一番重要な座標軸をご自分の中にもち、そこから自由さをもって生きておられたからです。

  不審に思ったファリサイ人に対して、「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とおっしゃり、更に、42節以下も語られたのです。

  ここでイエスが言おうとしておられるのは、あなた方は外面的な浄不浄を厳格に問題にしているが、内面的な浄不浄、心の浄不浄は問題にしない。それは見落としている。だが、そこにこそ信仰の命がある。聖書はそれを語っているのだということです。

  別の言い方をすれば、ユダヤ教形式主義を指摘された。そして、そこから視点を神と人との関係、また人と人との関係に移して行かれたのです。すなわち、信仰は形式や儀式でなく、実際の生活でどう生きるかであり、神との関係で実際にどうあるべきかだと語られたのです。

  ちなみに、「自分の内側は強欲と悪意に満ちている」と訳されていますが、前の訳は「貪欲と邪悪」となっていました。新共同訳は、イエス様が露骨でえげつない言い方をする人物のように誤解されると私には思えますが、皆さんはどうでしょう。また、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」となっていますが、前の訳は「災いである」となっていました。不幸というとリアル過ぎて、含みがなくなって私にはそっけない気がします。

  いずれにせよ、彼らは儀式や形式的には神を問題にしているが、内面では、神から離れてしまっているのを指摘されたのです。端的に言えば、彼らは口では宗教のことは言うが、神の下に生きていないからです。

  イエスは別の箇所で、外から人に入って来るものは人を汚さない。人から出てくるものが人を汚すとおっしゃっています。人の心から、悪い思い、卑しい思い、よこしまな思い、淫らな思い、貪欲や悪意、詐欺や妬み、悪口、傲慢などが出てくる。本当だと思います。

  イエスユダヤ教の浄不浄の見方を根本的に見直して、それを超えて行かれるのです。外側のことより、内側の命に目を注がれます。外側から心の方に決定的に移るのです。また、皆がするから自分もするというのでなく、主体的に自分は神に従うあり方をファリサイ人に求められました。

  そして、「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」と言われたのです。ここは前の口語訳では、「ただ、器の中にある物を清めなさい。そうすれば、一切があなたたちにとって、清いものとなる」と訳されていました。これならよく分かります。しかし今の訳も含蓄があります。

  「器の中にある物を人に施せ」とは、外側を見せる生活でなく、内のものを人に与える生活であれという意味でしょう。あなたの中身を与えよ。あなたの正直な心を示せ。内と外を同じにせよという意味もあるでしょう。

  イエスガリラヤで宣教を始め、「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と説かれました。悔い改めて、外のものでなく内側を大事にする生き方への方向転換をせよとおっしゃったのです。神に献げられる外面的犠牲がどんなに大きく荘厳であっても、単なる習慣的な犠牲や人に見せる慈善では、神を真に崇めることになりません。神のみ心に適う慈善、神にのみ栄光を帰す慈善は、内なる人を神に捧げることによって行われるということです。このような献身によって、「清いものとなる」のです。

  先週は仙台でのボランティアのことをお話しました。S教会のA先生も昨年9月にやはりエマオでボランティアをなさったそうです。仙台の街にある拠点から、自転車で1時間ほど離れた、松林を超えて大津波が押し寄せた若林区の浜に近い農家でのボランティアだったそうです。

  午前のボランティアが終わり、お昼になって農家の方が、じゃあまた、と言ってどこかに行かれた。それで食事をして、残った昼休みの時間に、海まで行こうということになった。それでA先生は、「さあ、津波の海岸ツアーに行きましょう!」とみんなに言ったんです。

  そしたら、皆から総攻撃を受けた。全国から集まってきた人たち、若者たちからもひどくやられた。「ツアーとは何事か。見世物じゃあない」っていうわけです。その攻撃にショボンとなってしまった。そして翌日、スタッフから「あなたは外に行かないで、内勤をしてください」と言われたっていうのです。

  「津波の海岸ツアーに行きましょう!」確かに言葉はまずかったかも知れない。でも、本人の意向も聞かず内勤に回されるなんて。それで、ボランティアをやめて帰って来たとおっしゃいました。

  率直に打ち明けられ、先生は長く会社勤めをして牧師になった方ですが、とてもいい経験をなさったと思いました。心に辛い傷を受けられて、この失敗は必ず生きると思いました。きっと素晴らしい先生になられると思いました。

  「器の中にある物を人に施せ」とは、外側だけ見せて心の内を見せない生活でなく、中のものも人に与える生活です。失敗も泣き出しそうなことも、まずいこともみなイエスさまにまた人に告白することです。幼子のようにあなたの中身を与えよ。あなたの正直な心を示せ。すると「あなたたちにはすべてのものが清くなる」と言われるのです。

  理論や宗教儀式で見せかけても何にもなりません。むしろそれによって偽善が、仮面が、偽装が入り込み、一層醜くなるでしょう。

      (つづく)

                                   2012年12月2日



                                   板橋大山教会   上垣 勝


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