裁かれるために来られたキリスト


女川の中心街には津波で横倒しになった建物が倒壊したまま。その津波の力のもの凄さを今日も語り伝えています。
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                                           蝮(まむし)の子らよ (下)
                                           マタイ3章7-12節


                              (3)
  色々引用しましたが、聖書は愛の書であり、キリストは愛と赦し、平和の主、慈愛に満ちる方と私たちは語っているのに、どうして峻厳な審判の言葉が数多くあるのでしょうか。

  一言で言えば、神のお与えくださる恵みは安っぽい、安価な恵みでないからです。この恵みは、人間がどんなに危険を冒して登っても自分からは手にできない高嶺の花です。人の努力では決して達し得ない高価な恵みです。

  神の愛の恵みは、全宇宙より重い価値があります。ですから、神の恵みの巨大さを考えず、軽く考えたり、イエスの犠牲の貴さに目を向けず、その救いだけを安直に手に入れようというのは良いことではありません。

  神の恵みは高価で、測り知ることのできない値があり、その恵みの高価さに無知であるのは、余りにももったいないからです。虫が良すぎます。

  ですから、その高価さに相応しい意味と重みを自覚して受け取るべきです。そしてそれをする場合、神が独り子イエスを世に送られたということは、一人ひとりへの審判者を送られたこととして先ず捉えることから始まります。

  審判者でないような方は、救い主でもありません。真実な審判者であるからこそ、世の救い主であられます。

  ですからキリストの福音を聴く時、裁きということを欠いてはなりません。その裁きの前で、恐れおののく者であらねばならないのです。今、私は特別な意味を込めて、「裁きの前で恐れおののく」と申しました。この特別な意味が大事です。それは、「裁きの恵み」への恐れおののきです。私は今おかしなことを言っているように聞こえるでしょうが、意味不明の狂ったことを申し上げているのではありません。

  洗礼者ヨハネが、「蝮の子らよ」と語り、「差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか」と迫ったのは、ファリサイ派サドカイ派の者だけでなく、この私たち自身に語られた言葉として聞くべきです。

  イエスが、「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたの所に来るが、その内側は貪欲な狼である」とおっしゃいましたが、羊の皮をかぶり、内側が貪欲な狼であるのは自分であると、私たちは正直に告白していいのです。

  ですから、今日は触れませんが、むろん私自身の罪も社会の罪もそして裁きも、神の前で真剣な問題になっています。それを抜きにして、世の救いはありません。

                              (4)
  さて、先程申しましたように、イエスはこの世の審判者です。裁くお方です。しかも、世の人々の考えはどうであれ、真の意味の最後的な最高判決、神の判決となった方です。それに反対して、一段高い法廷に訴えることは不可能な裁きです。

  この審判者が、一切の義の尺度であられます。人間が、この方を抜きにして立てたり、この方の正義に反して立てる正義は、本来的に正義でなく、むしろ不正義と言うべきでしょう。キリスト教会が作った正義に反してと言っているのではありません。この方の正義に反して立てる正義です。それは不正義です。たとえ教会がそれを立てたとしても、神から見れば不正義です。

  ところが私たち人間は、神に対して別の正義を立てます。人の正義を立てます。神の尺度でなく、別の尺度です。そして、その正義によって自分を守り、自分を固め、その正義によって自分に無罪宣告が出来ると思っています。すなわち人間は、自分自身の審判者であろうとし、同時に他者の審判者でもあろうとし、自分を義とし、自分に満ち足ろうとします。

  一切の罪は、自分が自分の審判者であろうとする所に、本質と源を持っています。

  人間が人間の審判者であろうとし、それだけでなく万物の最高の審判者であろうとするのです。もし人間が最高の審判者であろうとするのでなく、神に譲って、神の判決の下に立とうとするなら、その時に自由な空気や和やかな空気、平らかな空気が生まれますが、自らが最後的な審判者になろうとする時に、神との抗争に陥ります。

  そこには荒ぶったものが現れ、高ぶったものも現れ、そのため、人間の世界は和解のない、温かさと穏やかさを欠いたものになりがちです。そこには人間の力ずくの支配が、袈裟の下から鎧(よろい)が垣間(かいま)見えるようなおかしな姿が現れます。それは日常においても散見するのではないでしょうか。キリスト教の世界でも、日本基督教団の内部でもそういうおかしなものが現れます。いや、うっかりすると自分がそうなっています。

  ファリサイ派サドカイ派が、「大勢」、大挙してバプテスマを受けに来たのです。個々人が罪を自覚し、悔い改めておずおずと来たのでなく、ヨハネバプテスマを受けて、悔い改めの仮面をかぶるためです。悔い改めの証明をもらうためです。

  神の審判を受けて砕かれ、悔い改めるのでなく、上っ面だけ悔い改めていればいいという態度です。自分を神の裁きの下に決して引き渡さないのです。断固自分を渡さない。自分はいつまでも砕かれず、自分は神のままです。自分は義のままです。

  彼らは神を敵に回しているのです。

  ヨハネの激しさは、彼らのこの点に向かいました。「蝮の子らよ。」自らの内に猛毒を持ち、その毒を持って人を殺傷する。だが自分に、毒は回らないようになっている。傲岸にも自分は頂点に立ち、毒も傷も受けず他者にだけ死の力を働かせる者らよ、だが、「既に斧が木の根元に置かれている」と語るのです。

  しかしファリサイ派サドカイ派だけでなく、全ての人がこうした罪を犯します。そのような罪を犯さないと言える人は、一人もいません。

  罪の本質は、自分自身の審判者であろうとし、自分自身を義としようとすることです。人間は高慢になって自分を義とし、絶望しても自分を義としたいものです。自分の義、自分の尺度で自分と人を裁くのです。

  ヨハネはそれを弾劾します。私たちも例外ではありません。そしてイエスの厳しい言葉も、自分は毒を受けない安泰な所に置いて、他者に毒を向ける私たちをも裁かれます。他人の目にあるおが屑を取ろうとする。だが自分の目にある梁を認めない私たちを裁かれます。

  神はその裁きをやめることなく、緩めることなく、完全な厳しさで裁きを遂行されるのです。寛大さで人を助けるのでなく、裁きを徹底的に貫くことによって、恵みを行われるのです。

  もう一度申します。神はこの世を最後決定的に裁くことによって、ですから最高裁の最終結審を行うことによって、この世に救いと祝福を授けられたのです。

  今、ちぐはぐなことを申し上げているように聞こえるでしょうが、ちぐはぐではありません。

  神はこの世を裁くために、御子を送られました。裁きは断罪です。死です。この断罪によって私たちを義とし、私たちを殺すことによって命を授け、私たちの死滅によって祝福と救いを与えられたのです。

  すなわち、神は私たちを、イエス・キリストにおいて、実際に裁かれたのです。最後決定的に裁かれたのです。それが最高裁の判決として神の前で最終的に実行されたことです。

  その裁きのためにこそ、すなわち裁かれるためにこそ、イエス・キリストはこの世に来られ、友なきものの友となり、虐げられ小さくされた人のそばに来られ、私たちの兄弟となり、孤独のままに放置せず、私たちの間に歩み入られたのです。

  もしこのようなことが起こらなかったら、破滅した世と、破滅した人間が世に存在するだけだったでしょう。しかし、神が私たちを、キリストにおいて、実際に裁くことによって、この出来事が2千年前に十字架上で起こることによって、私たちに対して、「君は破滅していない」と言う福音を語られたのです。

  すなわち、神の御子が人間となり、私たちの代理となり、私たちに下された神の裁きを、ご自身に対して宣告されるものとされた。そのことによって私たちに救いを、ご自分に刑罰を引き受け、私たちに代わって死を引き受け、私たちのために告発を引き受け、断罪を引き受け、神の裁きと死を引き受けて、罪と死の囚われから私たちを解放してくださったのです。

  何故(なにゆえ)に神は人となられたのか。それは、神のもとに私たちが立ち返るためです。神との和解を受けて、神との間で平和を得るためです。神によって義とされるためです。

  「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。」私たちはこの言葉の前に、襟(えり)を正すべきです。途方もなく大きな恵みに与ったことを喜び、感謝したいと思います。全宇宙よりも高価な恵みを授けられたのです。

                              (5)
  人は誤りやすいものです。人間は全て、善と悪、光と闇の混じり合った混合体です。善ばかり、光だけの人はいません。しかし闇だけの人も悪だけの人もいません。

  私たちはキリストに愛され、赦されています。差し迫った怒りを免れたのです。この感謝を持って、隣人に出会って行きましょう。神との和解を受けたのです。キリストの故に、神によって義とされたのです。穏やかに愛を持って、また忍耐をも持って、隣人に向かい、仕えて行きましょう。

  キリストは私たちに仕えられました。僕のように仕えられたのです。私たちもキリストに倣って、次の一週間を過ごしていきましょう。

  この世はキリストを待っています。

  (以上のことをもっとはっきり知りたい方は、K.バルト「和解論Ⅰ-2」をご覧ください。)

         (完)

                                    2012年11月18日


                                    板橋大山教会   上垣 勝


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