ヨハネは異端者か


     震災支援センター「エマオ」のボランティアさんは、毎朝、10数キロ離れた若林区に自転車で出かけます。



                                           蝮(まむし)の子らよ (上)
                                           マタイ3章7-12節


                              (序)
  「蝮(まむし)の子らよ」というきつい題になりました。別に心が荒ぶっているわけじゃなく、洗礼者ヨハネの言葉から取っただけです。ただこんな題にすると、題に釣られて叱ってもいい気がしますから、人間は実に愚かな者だと先ず思います。

  ただ洗礼者ヨハネの言葉を取り上げて、物凄く厳しい内容になりはすまいかと恐れますが、今日お話ししたいのは、彼の峻厳な審判の言葉の向こう側に神の実に偉大な救いがあることです。それで、終わりに強調点がありますから、そのようにお聞きください。

                              (1)
  どの福音書にも、イエスの前に洗礼者ヨハネの言葉が置かれています。彼がイエスより年上だからですが、彼が荒野でイナゴや野蜜を食料にし、らくだのゴワゴワの毛衣を着、腰に擦れ切った革の帯を締めて、集まって来る民衆に「悔い改めよ」と語って、イエスの道備えをしたのがその理由です。キリスト到来の準備をした。彼の姿、格好からも分かるように、自分自身に厳しさを課し、民衆にも厳しい言葉を語って、イエスの福音の前触れとなりました。

  そのため、人々はエルサレムユダヤ全土、またヨルダン川沿いの地方から続々と来て、罪を告白し、ヨルダン川に入って洗礼を受けたのです。

  ファリサイ派サドカイ派の者たちも洗礼を受けに来ました。だが彼らを見て彼は、「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか」という言葉で迎えたのです。また、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と、追い打ちをかけました。彼らに特に厳しく、火を吐くような言葉で叱りつけています。

  また、彼の後から来る方イエスを指して、「その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語りました。脱穀場は籾殻があちこち飛んで散らかり、麦も散乱しています。それを徹底的にきれいに分別し清めるというのです。裁きの譬えです。

  また、神の怒りの日に、「我々の父はアブラハムだ」と叫んでも何ら役に立たない。神に対する全く笑止千万な態度だ、と警告しました。神の前では血縁、地縁、家柄、民族などの誇りは無に等しいと語ったのです。

  彼は言います。「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」そういう上に胡座(あぐら)をかくな。アブラハムの子孫であることは何ら特別ではないと警告しました。

  そして、神の怒りを免れ、罪の赦しを受けるには、今、ここで、悔い改めなければならない。罪を告白し、悔い改めにふさわしい実を結ばなければならぬと語ったのです。

  ルカ福音書によれば、悔い改めの実というのは、単に心の問題でなく、現実に悪を離れ、神の戒めに従って隣人を具体的に愛することです。隣人に向かって開かれた心、心開いて共に生きる生き方です。

  裁きの日に備えて悔い改め、低く謙(へりくだ)り、後戻りしないためにヨハネは洗礼を授けたのです。そして、イエスヨハネのところに来て、洗礼を受けられたのです。

                              (2)
  洗礼者ヨハネの言葉は新約聖書において特異でしょうか。彼は荒れ野の預言者と言われ、旧約預言者の血を引くので、新約では異質な変わり種、異端者と言うべきでしょうか。

  ところが、イエスご自身もマタイ10章で、「私が来たのは地上に平和をもたらすためだと、思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と言われました。剣です。裁きです。

  また、「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたの所に来るが、その内側は貪欲な狼である」とおっしゃり、「主よ、主よ、というものが皆、天国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」ともおっしゃっています。実に厳しい。

  さらにマタイ23章では、「偽善な律法学者やファリサイ人たちよ」と、彼らを鋭く睨(にら)みつけておられる。そして彼らに向かって、「わざわいだ」と幾度も語られました。

  「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という、多くの人が好み、慰めを与えられる言葉を語られた後で、「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」と断言されました。

  こうしたイエスの言葉を拾い上げると、ヨハネは決して新約の中で特異な存在でも、排除されるべき存在でもありません。異端者でなくイエスと類縁関係にあります。

  では、使徒パウロはどうでしょう。彼はアテネの有名なアレオパゴスで、「神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆、悔い改めるようにと命じておられます。それは先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです」と語りました。またコリントの人たちに向かって、「私たちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けねばならない」と断固語っています。彼も悔い改めも裁きも語りました。

  さらに使徒言行録は、イエスを、「生きている者と死んだ者との審判者」と呼んでいます。最後の審判者です。私たちがきょう使徒信条で、「生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白したのはこの言葉から取られています。

  また聖書全巻の最後、ヨハネの黙示録には、裁きの座に座るお方の口から、鋭い両刃の剣が突き出ていると記され、またヘブライ書は、「実に、私たちの神は、焼き尽くす火です」と証言しています。このように福音書以外にも裁きや怒り、災いや火などによる審判が語られています。

         (つづく)

                                    2012年11月18日


                                    板橋大山教会   上垣 勝


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