眠りについた愛する人たち


                        ベートーベンの手書きの楽譜もありました。
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                                         羊は声を聞き分ける (下)
                                         ヨハネ1章27-28節


                              (5)
  さて、「私は彼らを知っており、彼らは私に従う」と言われた「彼ら」とは誰でしょう。永眠者記念礼拝のために今日前に飾られた写真の方々を抜きに、「彼ら」とは言われていないのです。既に眠りについた私たちの愛する人たちもむろん含まれています。

  今日、永眠者記念礼拝を持っているのは、この方々が、人間的には色々な賜物を持ち、欠点も持っていたかも知れませんが、罪を知る故に、それを解決してくださる方に自覚的にお委ねして行かれた信仰の先輩であられるからです。

  先に召された愛する方々は、羊飼いイエスに聞き従った方々です。他の魅力的な声も聞こえる中で、最後的にイエスに従い、その道を最後まで歩かれたのです。キリストにこそ、まことの救いと慰めがあり、到底自分は義人と言えないが、キリストの犠牲の死、罪を取り除けて下さる贖いの死、その真実な身代わりによって神が自分をも義として下さることを信じて従った皆さんです。魂の耳をまことの神に向けて進んだ方々です。

  この方々は、迷い出た一匹の羊として、キリストの声を聞いたのか。人生の困難に遭遇してそこで聞いたのか。人生の旅路半ばで道を見失った者として聞いたのか。

  あるいは皆と一緒に歩き、長くその群れに混じって歩いていた。ところが、自分にとってその歩みは滅びに至る歩みだと気づいて、急いで魂に語りかけられる声を聞くようになられたのか。

  あるいはまた、皆と一緒に歩いて来たと思っていたのに、いつの間にか周りに人がいなくなり、寂しい道をトボトボ歩いている自分を見出し、そこで聞いたのか。あるいは、全くの晴天、全くの快調、順風満帆の中にあるにかかわらず、突如として魂に呼びかける声を聞かれたのか。

  人生の早い時代にイエスの声を聞いたのか、晩年になり、それも最晩年になって聞かれたのか。

  悩みの中でのみ、人は魂に語りかける神の声を聞く訳ではありません。いつ、どこで、どういう状況で神の声を聞くかは一人一人異なります。すべてのものに時があり、最善の時に神の声を聞かれたのです。

  色々な違いはありますが、「私の羊は私の声を聞き分ける」と言われたように聞き分けたのです。聞き分けたのは、神の恵みです。選びであります。聞き分ける力をお与え下さったのです。

  いずれにせよ、イエス・キリストは教会の頭であり主であるお方ですが、私の主として、同時に世界の主として信じ、告白していった方々です。

  そのようにして、彼らは「私に従う」人になられたのです。これが、ここにお写真がある方々であり、写真はないが週報の裏面に記された方々です。

  キリストに出会い、従う人になるとはどういうことかを、ある人が書いています。「人間が本当に人間らしい人間となること。神に創られたものにふさわしい姿となること。恐れなく、自由に、ユーモアをもって、しかも雄々しく、今日の一日を生きること。一日の苦労をして一日にて足らしめること。今日の一日を、真に現在的に生きること。日々の苦悩に対して、根本的な楽天観をもって、然りと言うこと。…単純に真実を尊び、美を喜ぶものとして生きること。」

  キリスト者とは一言で言えば、キリストに導かれ、今を現実的に雄々しく責任的に生きることです。言葉で言えば美しいですが、現実には色んな破れを持ちつつ、その破れと戦いつつ、生かされている時を神から授かった恵の時として生きようと歩んだ方々です。

                              (6)
  イエスは更に言われました。「私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪うことができない。」

  何と確かな約束でしょう。永遠の確かさをもって約束されたのです。私たちの罪や弱さや、失敗や愚かさを超えて確固として約束して下さいました。

  一言で言えば、「恐れるな」ということです。有頂天になる必要もないが、何者も恐れる必要はない。キリストにあっては弱さも、失敗も、人の噂も、陰口も、病気も難病も、死も恐れることはない。

  「決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪うことができない」のです。

  世に生きている限り、苦難や試練がなくなることはないでしょう。しかし、苦難や試練でたとえどん底に落とされても、羊飼いキリストは共にいて永遠のみ手を持って支えて下さり、誰もキリストの手から私たちを奪うことはできないのです。

  地上のどんな危険や脅しにあっても、揺るぐことのない平和で包んで下さるのです。天地が滅びても、キリストの約束は永遠に滅びることはありません。

  それだけでなく、今日の次の29節で、イエスはこう言われました。「私の父が私に下さったものは、全てのものより偉大であり、誰も父の手から奪うことはできない。私と父とは一つである。」

  キリストが守って下さる。誰もその手から奪うことはできない。だがそれだけでなく、更に父なる神のみ手が、その外側から覆うようにして守って下さり、2重に固く守ってくださる。キリストと神は一つになり、誰も私たちを損ねることはできず、父なる神の手から奪うことはできないのです。

         (完)

                                    2012年11月11日



                                    板橋大山教会   上垣 勝


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