人の前に身を屈める神
(アヴィニヨン演劇フェスティバルつづき) ヨーロッパのお馴染みの風景がここにもありました。
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人の前に身を屈める神 (下)
ホセア8章1-14節
(前回からつづく)
3) 次の8章11節で、更にホセアは語ります。「エフライム(北イスラエルのこと)は罪を償う祭壇を増やした。しかし、それは罪を犯す祭壇となった。」13節「私への贈りものとして生贄を捧げるが、その肉を食べるのは彼らだ。」
何と見え透いた宗教行為でしょう。彼らの宗教行為は結局自分のためである。自己愛である。信仰も宗教も伝道も、自己愛に転化してしまっては何ものでもなくなります。それは、造り主を忘れ、置き去りにした信仰です。
そこで8章14節は結論的に語ります。「イスラエルはその造り主を忘れた。」
(3)
もはやイスラエルに救いの道はない。罪が溢れて至る所に氾濫し、救済の手立ては尽きてしまったのです。1章から8章そして10章まで、神の民イスラエルの救い難さ、もはや救いの万策は尽きてしまったと語られます。
イスラエルは、地獄の底に叩き落とされるべき存在である。神に背を向けた民を待っているのは、9章7節にある「裁きの日、決済の日」の到来のみであるというのです。
そのためホセアは、「霊の人は狂う」とまで語ります。霊の人とは、神の霊を注がれた真の預言者です。その預言者、「霊の人は狂う」のです。
狂うのは、彼らを救うことができなかった預言者の悔しさからです。どんなに愛しても繰り返して淫行に走り、真の愛に気づかないゴメル。そしてイスラエル。
預言者は気も狂わんばかりです。預言者的絶望です。ゴメルを通しても、ホセアはどんなに絶望的な姿を味わったでしょう。
そうした中で、ホセアは突如11章を語ります。神が愛して来られたこれまでの何千年の歴史から語り始めます。「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出し、我が子とした。」
だが、「私が彼らを呼び出したのに、彼らは私から去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香を焚いた。」何たる背信でしょうか。
「エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、私だ。」難しいこの世界の中をどう歩むべきかを教え、諭したのは、主でした。
「しかし、私が彼らを癒したことを、彼らは知らなかった。私は人間の綱、愛の絆で彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身を屈めて食べさせた。」神はどれほど長く愛の絆で彼らを導き、身を低くして彼らを養ったことでしょう。
7節、「我が民はかたくなに私に背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない。」もはや万事休すである。天に向かっていかに助けを求めても、助けはどこからも来ない。ここでも預言者的絶望が繰り返されます。
ところが8節は、「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか」というのです。「ああ」とは、愛ゆえの嘆きです。神が悲嘆にくれ、「ああ」どうすればいいのだと嘆かれるということです。
「…私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。私は、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。私は神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」神の愛の熱情は今や真っ赤に燃えて燃え上がらんばかりです。
(4)
私は今回、先ほどの「身を屈めて食べさせた」という言葉に心が留まりました。それを読んで、ミレーの絵を思い出したからです。庭先で椅子に腰掛けた母親が、3人の子らにスプーンで何かを食べさせている作品です。寒い冬の短時間の陽だまり中で、暖かい空気が辺りを包んでいます。
農家の庭先でしょう。鶏や牛の姿が背景に見えます。子ども達は何枚も重ね着させられ、木靴を履き、編んだ毛糸の帽子をかぶり、玄関の石の敷居に座って、口に運んでもらっているのです。順番で一人の子が口を突き出しています。貧しい農家ですが、貧しさの中の何と暖かな母と子らの風景でしょうか。
11章4節は、このミレーの絵を思わせます。「身を屈めて食べさせる神。」神の、人間の心を持った実に暖かい思い、その心が伝わってきます。神が低くなり、母親のごとくまたは僕のごとく人に仕え、身を屈めて我が子らに食べさせられるのです。裁かれ、断罪されるべき罪人にさえ仕えられる神。罪人をも義とする神。ここに新約聖書に通じる主なる神がおられます。最後には十字架にかかっておのれを与える神です。
「取れ、これはあなたがたのための私の体。これは、私の血による新しい契約。…このパンを食し、この杯を飲むごとに、主が来られる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」聖餐式の言葉を思い出させられる場面でもあります。
私たちの信仰の中心である信仰義認とは何でしょう。人間の業、功績によってではなく、イエス・キリストを信じる信仰による義です。私たちには何の誇りもありません。
すなわち、罪人を義とされるが、既に義とされた罪人も、義とされた「罪人」であることには変わりありません。未だ罪人であります。だが、未だ罪人である者らが既に義とされている。罪人だが「義人」である。そこでは感謝、賛美、謙遜の他ありません。決して思い上がることはできません。厳密な意味で義なのは、神のみ、キリストのみです。その神、そのキリストにおいてのみ、義とされているのです。
私たちの義は掴み取ることはできません。義を宣告され、義を授けられるのみです。だが、イスラエルの罪は、自らの手で義を掴み取り、神の前に、自分たちだけが義であるとしたところにあります。
(完)
2012年10月28日
板橋大山教会 上垣 勝
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