チョコっと事実を曲げること


(アヴィニヨン演劇フェスティバルつづき) カフェ・テラスの客たちに歌って自分たちの芝居に誘っていました。
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                                          人の前に身を屈める神 (中)
                                          ホセア8章1-14節


  (前回からつづく)
                              (2)
  そのような中で今日の8章が語られますが、それは新しい希望や展開でなく、更にイスラエルの罪の姿があぶり出されます。

  1) 1節は、「角笛を口に当てよ。鷲のように主の家を襲うものがある。イスラエルが私の契約を破り…」と語ります。冒頭から難問ですが、この「角笛」は何を意味するのでしょう。私は考え続けました。そして示されたのは、1-3節から考えて、「警告の角笛」だということです。どういう警告か。それは、イエスが「死体のあるところに、禿鷹が集まる」とおっしゃいましたが、ここでは「鷲のように主の家を襲うものがある」とあるように、北イスラエルには鷲によって襲われるような死臭が漂う状況があるということです。彼らは神との契約も約束もすっかり破ってしまって、死臭が立ち込めているのです。

  そのような危機的状況に陥っている北王国に、警告の角笛を鳴らせと語るのです。

  そのような危機的状況にもかかわらずと、2節は語ります、「私に向かって彼らは叫ぶ。『わが神よ、我々はあなたに従います』。」口では実に敬虔なのです。しかし敬虔な振りをし、立派な信仰者を装っているが、実は何という欺瞞でしょう。彼ら「イスラエルは、恵みを退けた」のですから。何と歯の浮く空疎な言葉をかたるのでしょう。神をも騙そうとは、何たる恥知らずでしょう。

  ホセアは4節で語ります。「彼らは王を立てた。しかし、それは私から出たことではない。彼らは高官たちを立てた。しかし、私は関知しない。」

  王も重鎮たちも国の中核をなす者たちも、彼らが立てられたのは主のみ心とは無関係である。神様から出たものではない。そのなすところは、自分たちの発案であり、己が腹から出たものであり、自分の都合に合わせた作り物に過ぎない。

  だから「私は関知しない。」彼らと私は全く無関係だと主は言われるのです。

  恐ろしいことです。彼らは、自分たちは主の民だと称し、「我々はあなたに従います」と厚かましくも公言してやまない。だが、主の民を自称するが、実際は主に背を向け、自力で救いの道を切り開いている。謙遜はもはやない。主なる神をなめているのである。預言者にも耳を貸さない。

  歴史を紐解(ひもと)けば、このようなことは旧約のイスラエルの中だけでなく、キリスト教会においても起こりましたし、色々な所で現在も起こります。神でなく、真理でなく、人間の策略や巧妙な手で道を切り開こうとするとき、それが起こります。チョッと事実を捻じ曲げ、僅かに事実を改変して得をしようとする。そこではもはや神は働いておられず、真実は捨てられ、集団の策略や巧妙な申し合わせが働いているに過ぎません。その時には、神は「私は関知しない」と言われるのです。

  そのような中では、胸に後ろめたさと虚しさが残りますし、その信仰は神への誠実を欠き、必ずその態度は冷笑的に、虚無的になります。だって皆を騙し得たからですし、神をも騙し得たのですから。神のご支配でなく、人間の支配しかないのですから。

  なぜそうなるのか。私たちが神を担い、神を担(かつ)ぎ、持ち運ぼうとするからです。神が私たちを担い、私たちを担ぎ、持ち運んでくださる方なのに、一歩神の前に出て、自分たちの有利になるように工作して神を持ち運ぼうとするからです。

  それは、もはや神に仕えるのでなく、神を仕えさせているに過ぎません。自分たちが神になり、自分たちが法になり、ルールになり、自分の都合に合わせて規則や法律を運用するようになります。そのようなことが北王国で起こり、今も宗教の中で起こります。宗教教団の内部でも起こる可能性があります。

  繰り返しますが、それは主から出たものでなく、自分たちの腹から出たものです。人も神も、一杯喰らわしたのです。

  そのことを6節でホセアは言います。「それはイスラエルがしたことだ。職人が造ったもので、神ではない。」神でなく、人間がしたのです。人を煙に巻ける職人、プロがそういう誤魔化しをしたのです。だが、彼らは歴史の中で必ず神によって裁かれ、「サマリアの子牛は必ず粉々に砕かれる」でしょう。私たちはまことの神のみを畏れなければならないのです。

  2) ホセアは7節で語ります。「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても、穂が出ず、麦粉を作ることができない。」主の意向から出たものでないので、空しい種まき、空しい刈り取り、実らない畑になるというのです。

  詩篇126篇で歌われているのとは正反対です。そこには「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」とあります。

  だが彼らには、このような喜びの歌はありません。涙と汗と苦しみを突き抜けて来た、心からの感謝、喜びはありません。爆発するような喜びは、主に真実を尽くしていく中で生まれるのであって、全く僅かでもチョコっと誤魔化し、我が身や我が陣営の得をしようとするようなあり方からは生まれません。

       (つづく)

                                        2012年10月28日



                                        板橋大山教会   上垣 勝


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