小説「氾濫」とホセア


シャッター・チャンスを逃しました。にっこり笑った笑顔が魅力的だったのですが。彼女もお芝居のチラシを配っていました。
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                                          人の前に身を屈める神 (上)
                                          ホセア8章1-14節


                              (序)
  今日は久しぶりに旧約聖書を取り上げました。ホセア書はあまり馴染みがないかも知れません。しかも、その途中の8章ですから、理解するのに骨が折れるかもしれませんが、ご一緒にみ言葉を聞きましょう。今日はちょっと難しくなります。

  昔、映画になりましたが、「氾濫」という伊藤整の小説がありました。1960年頃に書かれた時代を先取りした作品でベストセラーになりました。その頃は、日本経済も朝鮮戦争を機会にドンドン景気が良くなっていました。

  小説は、堅実で慎ましやかだったある家庭が、夫がある接着剤の発明をしたことがきっかけに重役に抜擢され、徐々に豊かになるに連れて、妻はこれまで貧しさの中で隠れていたものが徐々に露わになり、繁栄するに従ってドンドン派手になり、派手になると共に異性とも肉体関係を持つようになります。娘も同じでありまして、夫も同じようなことをしていきます。で、この小さな家庭に罪に罪が溢れ、悪に悪が加わり、小さな一家なのに欺きと不倫の罪、色々な不正の罪。そうでしょう、悪いことをすれば必ず隠さなければならないので、家族をも欺いていきます。すると不信が生まれ、エゴイズムも氾濫して来るといった作品です。

  ちょうど時代を反映した作品で。以後、実社会にそういう問題がどんどん出て来て今日に至っています。

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  さて、皆さんはダビデとかソロモンはご存知だと思いますし、一般の人もこの2人の名前くらいは聞いておられるでしょう。ホセア書は、そのソロモン王の死後、イスラエル王国は南北両王国に分裂して、南は南王国とかユダ王国と呼ばれるようになり、北は北王国とか、北イスラエルとか呼ばれます。しかしこの北イスラエル、北王国は、250年程続きますが紀元前721年にアッシリア帝国によって滅ぼされます。その終わり近くに登場したのが預言者ホセアです。紀元前750年頃から預言活動を始めています。今からほぼ2,760年前です。

  1章を見ると、ホセアは、「淫行の女、淫行にふける女」ゴメルを、妻として娶(めと)れと主から命じられます。彼女は、愛欲にふける女性で、欲望の趣(おもむ)くままに次々愛人を替えていく人間です。2700年前ですが、現在のテレビ・ドラマに出てくるような女性です。

  3章を見ると、彼女は、ホセアと結婚して2児をもうけます。しかし、「夫に愛されていながら、姦淫する女」なのです。実は、彼女は北イスラエル・北王国を象徴する存在なのです。主に愛されていながら主を捨て、愛人の後を追うようにバアルなど、異教の神々を慕って、その前で香をたくのです。

  そのためにホセアは、4章1節、2節で、「この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもない」と語り、「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている」と訴えます。7節では、「彼らは勢いを増すに連れて、ますます、私に対して罪を犯した」と、繁栄するに従って主に対して罪を増し加えていく北イスラエルの罪を暴きます。

  さらに4章13節、14節では、「お前たちの娘は淫行にふけり、嫁も姦淫を行う。娘が淫行にふけっても、嫁が姦淫を行っても、私は咎めはしない。親自身が遊女と共に背き去り、神殿娼婦と共に生贄をささげているからだ。悟りのない民は滅びる」と、罪が極まり、落ちる所まで落ちた民の「滅び」を預言します。

  伊藤整の「氾濫」は私小説ですが、それに似た世界です。氾濫の方は、両親と娘の小さな家族に氾濫する罪ですが、北イスラエルは個々の家族を遥かに超えて、民族的、国家的に罪が膨れ上がって蔓延し、もはや打つべき手がない有様です。

  ところが主はホセアに、そのイスラエル同様、罪にまみれ、罪に染まった妻ゴメルを、連れ戻して愛せよ、「姦淫する女を愛せよ」と命じられるのです。イスラエルを、なおも愛し続けられる神の愛の象徴として、ゴメルを連れ戻して愛し続けさせるのです。

  預言者ホセアは、たまったものじゃあありません。煮え湯を飲まされるかのような状態です。主の命令に従って、出奔したゴメルを、お金を払ってまでして連れ戻し、自分のもとに長く留めようとします。だが、彼以上に煮え湯を飲まされているのは、実は主なる神に他なりません。預言者ホセアは、火のように熱く燃え上がり、胸焼かれるような主の愛、裏切られても、裏切られても愛し続けられる神の愛の忍耐を、ゴメルを娶ることによって知らされていくのです。

  すなわち、預言者は自らの生活を通して主の愛の深さ、真実さを知っていくのです。彼は、北イスラエルが神に背けば背くほど、私生活の経験と重なり、神の愛の深さを知っていきます。

  そして7章10節で、「イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である」と語り、16節は、「彼らは戻って来たが、ねじれた弓のように空しいものに向かった」と語ります。

  連れ戻されても、連れ戻されても、イスラエルの性根が治らない。「ねじれた弓のように」、その存在自体がねじれて、歪み、曲がってしまっているというのです。弓がねじれていれば、いかに的に向けて矢を放っても、あらぬ方向へ飛んでいっちゃいますね。箴言26章に、「犬は自分の吐いたものに戻るように、愚か者は自分の愚かさを繰り返す」とあるように、根性が腐って、もはや箸にも棒にもかからなくなってしまったという訴えです。

       (つづく)

                                        2012年10月28日



                                        板橋大山教会   上垣 勝


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