世界一の棚田


(前回の写真に続く) 先程まで路上でパーフォーマンスをしていた青年たちまで2人の演奏に引き込まれていました。
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                                        お互いの間の愛の豊かさ (下)
                                        Ⅱテサロニケ1章3-5節

                              (3)
  テサロニケ教会において、信仰と愛が迫害と苦難の中で成長したのです。

  先日のテレビをご覧になったでしょうか。中国・雲南省にあるハニ族の世界最大の棚田が放映されていました。面積は東京ドームの1万倍だそうで、その広大さに驚きました。段数は約3千段、高低差1千mに及ぶ世界一の棚田だそうです。

  1300年かけて作られました。始まりは、ハニ族が、他の民族に追われてその谷合いに6世紀に住んだことに遡ります。迫害の中でこの急な山の斜面を延々と耕し、世界最大の棚田を作って暮らすようになり、遂に今、世界遺産になろうとしているそうです。

  迫害、苦難。だが、それによって鍛えられ、足腰を強くされ、不便な山間なのに豊かな地を作り上げて行ったのです。棚田を見渡して日本人が、「素晴らしい景色ですね」と言いましたら、ハニ族の青年は、「美しいというより、私はいとおしさを感じます」と言っていました。棚田でのコメ作り。その大変さに拘わらず、労を惜しまぬ姿は感動的でした。まさに「愛おしさ」です。青年はまた、「村は一つです。共に生きています。先祖の遺産を出来るだけ長く持ち運ぶ。私たちはその途中にいます」と言っていました。

  それを見ていて、歴史の中を旅する教会とも通じるものがあると思いました。テサロニケの信徒たちは、迫害と苦難の中でキリストにあって信仰と愛を培ったのです。担い切れないと思えたものをも、不可能を可能にするお方がおられる故に、無から有を造り出すことがお出来になる方のゆえに、担って行ったに違いありません。すると担うことができたのです。

  パウロはそれを受け止めて、「あなた方が今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています」と書いたのです

  その忍耐と信仰が教会の堅実な成長になり、愛の成長になって行った。この現実の勝利が、彼らをキリストの証人として社会に立たせて行ったのです。信仰とは不可能を可能にされる方を信じることです。そして、不可能を可能にして下さる方を信じる信仰は、しばしば驚くべきことを為していきます。

  信仰はそんなに強く頑張らなければならないのか。いや、そう言う意味ではありません。それは、「信じます。信なき我を助けたまえ」と、不可能を可能にして下さる方を信じる。その方に委ねる信頼です。

  私たちの教会は信濃町教会の開拓伝道によって53年前に生まれました。その開拓伝道を強く推進したのが井上良雄という信徒の方でした。開拓伝道の場所探しも実際にして下さいました。不思議ですが、この方は約30年前に私を信濃町教会の副牧師として呼んで下さった方でもありました。

  この井上良雄先生の生涯を記した雨宮栄一著「評伝・井上良雄」という好著が先日出版され、著者から贈呈されました。

  井上先生は、戦前、芥川や志賀直哉の文芸批評で井上に勝る者はないと言われるほど優れた評論活動をし始めていました。しかし敗戦直前にキリスト者になり、自ら文芸批評の筆を折って、一切を捨てて戦後、カール・バルトの膨大な書物の翻訳者として生涯を終えられたのです。

  キリスト者になった井上先生を、ある人は「誠実が裃(かみしも)を付けて座っている人」と評したそうです。またある人は、「良心が背広を着ている」とも言ったと聞いています。確かにいつまでもそういう人でしたが、先週出た本の著者は、「敗戦直前に洗礼を受けるまでは、その真実は『自己の真実』だったが、洗礼を受けてからは、罪ある自己を赦したもう『神の真実』」に生きられた、と書いておられました。

  自分を押し通す自己の真実。そういう姿はあちこちで見受けます。だが一旦キリストに出会うや、「罪ある自己を赦したもう『神の真実』」に一切を賭けて進まれたのです。

  文芸批評の筆を断った人であるに拘わらず、戦後20年も経っているのに、「図書新聞」が井上良雄論を3回にわたって特集しました。

  その中で編集部は、「今ここに一人の男がいる。その名は井上良雄。現在、…大学のドイツ語教授、カール・バルトの紹介者、翻訳家、戦後はキリスト者として平和運動に励む。『神の僕』として寡黙であり、謙虚である。いまだに一冊の著書もない。翻訳者としての限界を守る。過去の軌跡を語ることを好まず、純粋に内面の悩みに堪える。妥協を嫌い、一筋に『神の福音』に(生きようとする。)昭和初頭の激動期に青年時代を送ったインテリゲンツィアの一人として無視できない『真実』を語りかけて来るものは、何であろうか」と記しました。

  長く引用しましたが、私たちの教会は井上先生お一人ではありませんが、こういう無視できない真実を語りかけ、「神の真実」に賭ける人たちによって生まれたことは記憶にとどめられるべきです。そしてテサロニケの信仰者たちも、一人一人がキリストにあって、信仰と愛に真実に生きたのです。

  それは、世間の人たちが注目するような派手な在り方ではありませんでしたし、あのハニ族が不便な谷合いの傾斜地を一鍬一鍬、1300年間いとおしいほど丹念に耕し、東京ドームの1万倍以上の広大な棚田を作り上げたように、テサロニケの信徒たちだけでなく代々のキリスト教徒は皆、罪ある自己を赦し給うキリストの真実に惹きつけられ、そのみ言葉に確信を与えられて、地道に日々の生活を信仰と愛によって耕して生きたのです。

  災いや苦しみは万人に共通して起こります。善人も悪人も等しく苦しみます。3.11の震災が被災者に与えた苦しみも同じです。だがそれをどう受け止め、どう担うかは全く違います。

  キリスト者は同じ災いにあっても、神に祈り、その中でも神を賛美する道を見出し、災いも信仰の進歩に役立てて行くのです。

  パウロが、あなた方の事を「神の諸教会の間で誇りにしています」と書いたことも、その事情を物語っているでしょう。テサロニケの信徒たちの苦難の中での生き方を、彼は誇りにしたのです。彼は更に、「これは、あなた方を神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなた方も、神の国のために苦しみを受けているのです」と述べています。

  幸運にしても、不運にしても、それをどう用いて行くかが大事です。パウロはローマの信徒への手紙で、確信を持って大胆に書きました。「神は、神を愛する者たち、すなわち御計画に従って召された者たちと共に働いて、万事が益になるようにして下さることを、私たちは知っている。」

  私たちもそれを信じ、今週も進みましょう。

      (完)

                                        2012年10月14日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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