お互いの間の愛の豊かさ


(前回の写真に続く)  アヴィニヨン演劇フェスティバルの会場は至るところにあり狭い路地もにぎやか
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                                        お互いの間の愛の豊かさ (上)
                                        Ⅱテサロニケ1章3-5節

                              (1)
  テサロニケの信徒への手紙の第Ⅰが終わって、今日から第Ⅱの手紙に入ります。今回は主な所を所々取り上げて行きたいと思っています。

  パウロはテサロニケの人たちに向けて、3節で、「兄弟たち、あなた方の事をいつも神に感謝せずにはいられません。またそうするのが当然です。あなた方の信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなた方すべての間で豊かになっているからです」と書きました。

  パウロはガラテヤ書で、「尊いのは、愛によって働く信仰だけである」と書いています。彼が信仰について説き、目指したのは、「愛によって働く信仰」、実際生活で愛の具体性を持って活きて働く信仰でした。燃える火から熱を分けることはできないように、信仰と愛を分けることはできません。それで彼は、愛においてそういう生きて働く信仰が、テサロニケの信徒たちにも根付き育って来たことを、今日の個所で感謝しているのでしょう。そのことは、彼が10節で、「あなた方が私たちのもたらした証しを信じたからです」と書いていることからも分かります。

  「信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなた方すべての間で豊かになっている。」信仰に根ざす、お互いの間の愛の豊かさの成長です。しかも、お互いに対する「一人一人の愛」です。個々人が愛の自覚を持って個人的に出会い、例外なく一人一人を信仰において愛している。これはこの世的愛とは違います。

  パウロはこの愛と信仰の成長のために、神に感謝するのです。キリスト者がこの世に存在するのはそもそも奇跡的なことです。自分の罪に砕かれ、神の救いに助けられ、イエスに倣って真実に生きようということが、罪にあふれた、不誠実なこの世の只中で起こっているからです。

  功利主義的な世界、この世の生に価値を置き、誉れと名声と富に価値を置く社会にあって、自分のためでなく、神のため、その栄光のために生きようとする人々が少数でもあるのは、驚くべきことです。彼はそのような事を含め、神に感謝するのです。

  好き嫌いが育っても何にもなりません。それならこの世と変りません。好き嫌いを超え、エゴを超えた愛が育たなければならない。「汝の敵を愛せよ」とイエスが言われました。自分によくしてくれる人、好ましい人を愛するのは自然で、反りが合わない好きになれない人や敵を愛することは実に難しい。で、そういう人を敬遠しがちです。人の愛は腐敗しやすいことを私自身、痛感します。罪のためです。好き嫌いの強いのは、それを超えることが神様から与えられた課題かも知れません。ここで言われている、お互いに対する一人一人の愛とは、キリストの十字架の愛で造り変えられた、聖められた愛です。

  私たちキリスト者の証しは、社会での証しと教会の中での証しがあります。双方は同じことですが、前者は社会に入って人々に仕えます。「あなた方は世の光、地の塩」と言われているものです。

それと共に、信仰に根ざしたお互いの間の愛の豊かさ。その成長が大事です。教会内の信仰と愛の内実がないなら、どんなに外へ出て行っても誰も教会を信用しません。和解の福音が教会内において生きられている。その時、福音はこの世に対して有効に働きます。

  信仰の成長と、お互いに対する一人一人の愛の成長は互いに関係しています。信仰が成長すればするほど愛が成長し、愛の成長と共に信仰も成長する。テサロニケ教会にそんな成長がなされて来たのを知って、彼は「感謝せずにはおられません」というのです。

  その教会には、信仰と、愛にある連帯が、網の目のように組み合い、支え合い、祈り、愛し合っている。パウロの感謝と喜びはここにあったたのでしょう。ですから、私たち一人一人も、そういう信仰と愛の成長を出来るだけ目指して行きたいと思います。

  エフェソ書に、「キリストによって、この体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて」行くのですとあります。「この体」とあるのはキリストの体、教会を指します。「組み合わされ、結び合わされて」とありますが、誰か有力者が中心に結びあわされるのではありません。キリストが中心となり、私たちを結びつけて下さるのです。

  エフェソ書は、私たちが互いにキリストに属するキリストの体だと言います。このキリストへの帰属と一致は、私たちの血や肉から来るのでなく、「キリストによって」とあるように、神の呼びかけから来ます。教会に集う人たちは、意識すると否とを問わず、その人に神の呼びかけがあって一つの体を作っているのです。私たちが年齢や性別、職業や色々な違いを超えて互いに関わり、互いに責任を持って関係し合うのは、この方が私たちを教会に呼ばれたからです。

      (つづく)

                                        2012年10月14日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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