小茂根の心身障害児総合医療療育センターで


(前回の写真に続く) 「愛の終わり」は大盛況。お芝居を待つお客たち。隣の座席にたまたま坐ったのは何とアテネ・フランセで教えているという若い女性。久しぶりに田舎に帰って友だちと来たというのでした。右がお芝居のポスター。                         (写真クリックで拡大) 
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                                          身体も心も霊も健やか (上)
                                          Ⅰテサロニケ5章23-24節

 
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  教会から南に徒歩で45分ほど行った所に小茂根という所があります。そこに心身障害児総合医療療育センターというのがございます。暫く前から時々そこに行きますが、障害を持つ幼児から中高生の子らとそのお母さんやお父さんが、いつも数十人待合室で待っておられます。「科学を総動員して不自由な肢体を出来るだけ克服し、幸いにももし恢復したら復活能力を出来るたけ有効に活用させて、自活できるように育成」するという考えを基に治療と療育が一緒になっている施設で、現在は身体の面だけでなく心身両面のセンターです。

  先週のある日のことです。ある子は14、5歳ですが、テーブル付きの車椅子に乗って、落ちないようにマジックテープ付きのバンドで体を縛って支えられています。

  ある子は小学1年生くらいで、リュックを背負ってあちこち動き回って落ち着きません。言葉は喋りますが、多動のために始終動き回るという障碍児です。

  ある子は車椅子に乗ったまま自動車から降ろされて来ました。酸素吸入器をつけています。上を向いて寝かされ、表情はありません。聞こえるのか聞こえないのか、頭は働いているのかいないのか、外面では分かりません。

  ある子は両手で杖をつき、ガニ股でヒョコヒョコ歩いて、両親の後からついて行きます。前を、センターの男性スタッフが案内して歩いています。挨拶していたので、センターに来るのが初めての様子です。

  2つある待合室を見まわすと、お母さんたちの表情は、朝ですが既に疲れています。夜中も世話があるのかも知れません。将来への不安も含んでいるのでしょう。

  しかし時々、会話がはずんだ明るい声がすることもあります。同じような障碍を持って、センターで友だちになった若いお母さん同士のようです。テンポの速いおしゃべりで一時の開放感を味わっているのでしょう。

  先に述べた、マジックテープの付いたバンドで、倒れないように車椅子の上で体を縛られている娘さんは、先程から時々大声を立てて嫌がっています。40代のお母さんが、口の中に棒状のものを入れ、出しては入れて、消毒でしょうか歯茎を順番に手当てしています。多分、沁みるのです。その度に娘さんは顔をしかめ、母親の手を振り払おうと、動物的な声を立てて顔を左右に振るのです。15分程手当てしていましたが、その間父親でしょうか。「嫌がっても、するんだから。嫌がっても、するんだから」と、何度も言い聞かせています。娘さんに言っているのか、周りの人に言っているのか、自分に言い聞かせているのか。いずれも含んでいるのでしょう。娘さんはものは言えないが、きっと分かるのでしょう。

  ある日の小茂根のセンターを長く描写しましたが、私は先週、こんな中で、「どうか、平和の神ご自身が、あなた方を全く聖なる者として下さいますように」という言葉を読みました。また「霊も魂も体も何一つ欠けた所のない者として」という言葉を考え、「非の打ちどころのない者として下さいますように」と言葉も考えていました。

  センターに行くと、重荷を負って生まれて来た子どもの多さを思います。普段目にしない子らがここに来ています。子どもが健常であれば、何も苦労する必要がなかった若い親御さんの苦労の大きさを思います。一つ一つのご家庭の様子は分かりませんが、多く重荷と葛藤を抱えている筈です。この両親たちにも、「非の打ちどころのない者として」とか、「全く聖なる者として」という言葉が語られているのでしょうか。むろんこれはテサロニケの信徒に宛てた手紙です。しかし聖書ですから、2千年前の彼らだけでなく人類に宛てられたものでもありますから、この両親にも宛てられているでしょう。

  そう考えると、私は言葉を失います。どうして、こんな重荷を負い、「非の打ちどころのない者」になどなり得るかと、鉛玉を胸に打ち込まれたような思いをもって黙らざるを得ないのです。

  そこで待合室のコーナーで、パウロがここで書いている事をもう一度、いや2度3度よく読みました。すると分かったのは、これは人々への、私たちへの要求や求めでなく、彼の祈りであることです。

  「どうか、平和の神ご自身が、あなた方を全く聖なる者として下さいますように。霊も魂も体も何一つ欠けた所のない者として守り、…非の打ちどころのない者として下さいますように。」いささかの要求もなく、執り成しであり、祈り求めです。

  しかも「平和の神」です。人々の重荷、苦悩を知るゆえに「平和の神ご自身が」というのです。平和が心に与えられなければ日々の生活は耐え難いでしょう。それがある時には、何とか持ちこたえて、不十分ながら何とか負って行ける。でなければ、小さなことでも人の心は腐ってしまうことがある。彼は祈りを薄めることなく、真実込めて、平和の神が働いて下さるように祈るのです。

  ここに、パウロが、「私は誰に対しても自由なものですが、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のように。…律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のように。…弱い人には弱い人のように。…すべての人に対してすべてのものになりました」と語る彼らしい生きざまが垣間見られます。

  それは愚かな生き方に見えますが、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」という、聖書の神、キリストにある生き方から生まれ来たったものです。

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  むろん、心身障害児センターと生涯関係なく明るく溌剌と人生を過ごす大半の人たちにも、祈られているでしょう。「どうか、平和の神ご自身が、あなた方を全く聖なる者として下さいますように。霊も魂も体も何一つ欠けた所のない者として守り、…非の打ちどころのない者として下さいますように。」

  「あなたは、こうありなさい」というのでなく、「して下さいますように」と2度にわたって語り、最後に、「あなた方をお招きになった方は、真実で、必ずその通りにして下さいます」と、神の約束と成就。それへの信頼を呼びかけています。中には、「そういう祈りは、私にはしないで欲しい」という声が上がるかも知れません。だが彼は祈りをやめないのです。どうして、苦難に耐え切れず絶望の声を張り上げる人に、真実な愛が負けてよいでしょうか。

  ある人は信仰者について次のような意味のことを書いていました。「彼は、自分が宇宙の中でほんの小さな存在であることを知っているのです。そして、自分が置かれた所で、献身的に生きるように呼ばれていることを知っているために、それをするのです」(J.バニエ)。彼は、子どもの心をもって人々のために祈るのです。パウロは今、この手紙を閉じるにあたって、愛するテサロニケの信徒たちのためにそういうことをしているのでしょう。

  彼は今遠くコリントの地にいます。で、自分にそれしかできないことを知っているので、限界を知りつつ神に執り成し祈るのです。彼は、献身に生きようとしているのです。神に信頼する故に、心の貧しい者として執り成し祈るのです。

       (つづく)

                                        2012年10月7日



                                        板橋大山教会   上垣 勝


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