称賛は感謝に変わるでしょう


 (前回の写真に続く) その「愛の終わり」のお芝居には言葉の壁を越えて感動しました。これこそ本場フランスのお芝居だと思いました。あのお二人はどうなったかと気にしながら劇場を出ました。  アヴィニヨン・フェスティバルで。
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                                           み言葉を聞き守る人 (下)
                                           ルカ11章27-28節


                              (5)
  24節以下の汚れた霊が戻って来るイエスの譬えですが、汚れた霊は一旦、家を出ました。しかし砂漠はカラカラに乾いていて、炎天下で休む場所もない。悪霊さえ、平和な休みを欲しているというのでしょうか。イエスのユーモアです。

  それで家に戻ると、家というのは心のことですが、掃除され、整理もされている。悪霊さえ清潔な所が好きなんです。で、これ幸いと、自分より邪悪な他の7つの悪霊を連れ込んで住みつく。するとその後のその人の状態は、前よりも悪くなるという譬えでした。

  なぜそんな事になるのか。悪霊が出て行ったものの、家(心)は綺麗さっぱり掃除整頓されていて、居心地いい空き家になっている。誰も家を治める主人がいない。そんな家は誰でも勝手に上がれます。だから他の悪霊と共に戻って来て悪霊の根城にする。イエスは私の主であると、決断を持って、自分の心に主を迎えていれば、悪霊は容易に戻って来れないのですが、そうでないから大変なことになっちゃうというのです。

  そもそも汚れた霊が出て行ったのは、追い出されたからでなく、「出て行くと」というのでしした。自発的に、気分転換で出て行った。悪霊だって、時には気分転換くらいは欲しい。これもイエスのユーモアです。で、気分転換に飽きて戻って来れば元の木阿弥です。出て行った隙に、主なる神においで頂き、お住み頂かねばならなかった。

  この女性は称賛しました。だが称賛は信仰に似ていますが、別のものです。称賛といった二の次三の次の事でなく、端的に自分の中に主を迎える人、「神の言葉に聞き、それを守る人」になることが重要なのです。その時、称賛は感謝に変わるでしょう。息子への囚われから解放され、新しい歩みが始まるでしょう。お金に縛られたり、安定した生活に縛られたりということからも解放され、人生の何かの呪いが取り除かれて、平和が入って来るでしょう。

  神の言葉でなくこの世に目を向けていると迷い出るのです。色々なものが心配になり、誘惑になり、迷わされます。人の世には色々な所に迷路があります。しかし神の言葉を聞き、それに目を向けて守る時、歩みの道が確かにされます。

  詩編112編の信仰者が歌っています。「主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。…悪評を立てられても恐れない。その心は、堅く主に信頼している。」

  119編の信仰者も語ります「あなたのみ言葉は、私の道の光。私の歩みを照らすともし火。」

  箴言の信仰者も語ります。「誰が賢い妻を見つけることができるか。彼女は宝石よりも優れている。」奥様方にはちょっとプレッシャーでしょうか?「宝石よりも優れている。」本当にそうでしょう。「力と気品とは彼女の着物である。」更にプレッシャーですか?「そして後の日を笑っている」とあります。

  ただ男性、女性の区別なく、主に委ねて「後の日を笑っている。」そういう賢さを持ちたいものです。信仰はそういう健康な生活へと導くものです。

                              (6)
  イザヤ書50章には、「お前たちの内にいるだろうか。主を畏れ、主の僕の言葉に聞き従う者が。闇の中を歩く時も、光のない時も、主のみ名に信頼しその神を支えとする者が」とあります。

  称賛と信仰は違うと言ったのはここにあります。信仰は、「闇の中を歩く時も、光のない時も、主のみ名に信頼しその神を支えとする。」そこまで行きます。自分の存在をそこまで賭けて行くのです。詩編に、「誓った事は自分の損害になっても変えることなく」とありますが、そういう真実一路の道です。そしてその道はどんなに壁に突き当たっても必ず先に続いているのです。神が先頭に立って道を開いてくださるのです。

  しかも、その真実一路の道が極まった所で神のみ言葉を聞いた人がいます。イザヤ書66章にこうあります。「私が顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人。私の言葉におののく人。」

  神の前に砕かれた魂を持って、神の真実の前におののく人。主はこのような人を顧みられるというのです。それは私たちの主イエス・キリストです。イエスは人類のためにそこまで砕かれ、そこまで苦しめられ、救いの道を拓いて下さいました。

  イザヤ書は52章から53章にかけて語ります。「彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。それ程に彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。誰も物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。…見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。…」

  主なる神はそのイエスを顧みて下さったのです。苦しみ、損なわれ、見るべき面影も風格もなく、砕かれた人を。そこまで低く卑しくなり、私たちの近くに来てくださったからです。そしてその方は、私たちの称賛の対象というより、感謝の対象、信頼の対象、そして喜びの対象、救いをなし遂げ成就して下さる方となってくださったのです。

     (完)

                                        2012年9月30日


                                        板橋大山教会   上垣 勝


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