マリアを称賛した女
アヴィニオン・フェスティバルのチケット売り場前。インターネットでチケットを買ったら、どうしたことか4枚買ってしまいました。Eチケットの交換所に着いてスタッフの女性に相談したら、親切にフランス語で、「チケット譲ります」と書いて張り出してくれました。
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み言葉を聞き守る人 (上)
ルカ11章27-28節
(序)
ルカ福音書を順番に取り上げて来て、今日は短い個所になりました。これは他の福音書に出てまいりません。読みさえすれば意味が分かって、大して重要でない個所に思われます。それで、ここだけを取り上げて説教する人は余りないようで、何人かの知人に聞きましたら、自分はしたことがないという返事です。大山教会の皆さんは恵まれています。他では殆ど取り上げられない個所を、ご一緒に考えることができる貴重な日になりそうですから。
(1)
「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『何と幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は』」、と言ったとあります。
「これらのこと」とは、暫らく前の、悪霊追放の事がきっかけで起こった14節以下のベルゼブル論争のことと、汚れた霊が出て行ってもまた戻って来る24節以下の譬えの話を指しているのでしょう。
「何と幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」これは、イエスの母マリアの幸福をたたえた言葉です。イエスに接したこの女性の感激とその気持は分かります。分かりますが、男性には言えない言葉です。皆さんの中で子どもさんを産んだ方なら言えるかもしれませんが、私には思い付きもしません。この発想は男性にはできないでしょう。
この女性は感激屋なのでしょうか。イエスに心酔し切っているのでしょうか。あるいは、「群衆の中から声高らかに」叫んだというのですから、今風に言えば有名人のおっかけのような人で、ミーハー的に称賛の声をあげたのでしょうか。
あるいは、女性は母マリアを称賛しているだけなのか、それとも自分がイエスを宿す人であればよかったのにという思いがあるのか、そこの所もよく分かりません。
もしかしたらこの女性は、親不幸な息子を持っていたのかも知れません。イエス様のような息子がいたらなあとか、爪の垢でも煎じて飲ませたいと思って、称賛の言葉を言ってしまった。そんなこともあり得ると思います。
(2)
それに対し、イエスはすぐ、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」とおっしゃったのです。
「むしろ、幸いなのは」というと、やや、きつく響きます。イエスは、彼女をはなから否定されたと受け取れます。そのためか、ある英語訳では、「もっと幸いなのは…」と訳しています。イエスは女性を頭から否定したのでなく、女性の気持ちを汲みながら、「もっと幸いなのは」次のような人ですよと言われたということです。
いずれにせよ、あなたは血の繋(つな)がりや地上の関係を大事に思っていますが、もっと大事で幸いなのは、「神の言葉を聞き、それを守る人。」即ち、神との、イエスとの信仰の交わりに生きる人こそ幸いであると言われたということでしょう。
言葉を換えて言えば、誰が誰を生んだか。それはいかんともし難い事実であり、そういう地上の関係からは人を活かす、神の喜ばしい福音は出て来ない。賞賛は生まれるだろうが、羨(うらや)ましさもそこから生まれ、自分はそうでないことへの失望も生まれるだろう。それは、私が語っている神の国の喜ばしい知らせではない。福音は、神の言葉に耳傾け、それを守り、そこに留まり続けることにあるというのでしょう。
もし彼女が親不幸な息子を持ってイエスの母を称賛しているとすれば、イエスは、「あなたは私の母の称賛でなく、あなた自身が先ず神の言葉によって養われて生きなさい。息子のことを言い続けても何も変わらない。息子のことは神に委ねて、問題はあなた自身であって、あなた自身が神に正しく向かわなければならない。あなたがみ言葉によって創り変えられて行きなさい。そうすれば、あるいは息子も少し変えられるかも知れない。神の言葉にはそれができる力がある。それが、私が語っている神の言葉だ。」イエスはそう語られたのだと思います。
多くの人は自分やこの世の何かに色んな形で囚われています。口に出さなくてもそうです。ああすればよかった、こうすればよかったという人もあるでしょう。中には、口を開けば愚痴ばかり。中年になると、皮膚も気も緩んで愚痴ばっかり言う人がいます。誰もが用心すべきです。あるいは愚痴が出るから口を固く閉ざす。それは賢明です。でも、心の中は原発のゴミのような愚痴で溢れて、どこにも持って行きようがない。
だが、神の言葉を聞くことによる新しい出発。イエスはそこからの新しい打開の道を語られるのです。
更に言えば、イエスの母マリアは、「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と言って、神に応答していきました。尊いのは、イエスを産んだことでなく、この神への応答であるのです。彼女も神に聞き、自分は神のはしためと考えてみ言葉を守った。福音に生き、神の召命に生きた。だから母マリアは、「幸いな女」と呼ばれたのです。
マリアのことは、同じこのルカ福音書1章に出て来ますが、それも他の福音書にはなく、ルカだけしか出て来ません。そして今日のもここだけです。で、もしかしたら、今日の個所と、マリアの個所はやはり深い関係で結びついているのかも知れません。
いずれにしろ、マリアは「お言葉どおりこの身になりますように」と語って聞き従った。そしてイエスも、「幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である」と言われたのです。
(つづく)
2012年9月30日
板橋大山教会 上垣 勝
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