体に、平和の傷を持つ


                   オランジュ世界遺産・古代野外劇場の上空を舞う鳩。
                               ・


                                         どんなことにも感謝 (上)
                                         Ⅰテサロニケ5章16-22節


                              (序)
  「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。」今日はこの有名な聖句を中心に福音を聞きたいと思います。

  ここには何と積極的で健全なあり方、明るいプラス志向があることでしょう。喜び、祈り、感謝。これ程、人生への肯定的で健やかな態度はありません。喜びは享楽と違います。祈りはご祈祷やお祓いとは違います。感謝は優越感とは違います。享楽もご祈祷やお払いも優越感も、偽りの喜び、偽りの祈り、偽りの感謝に過ぎません。それは神が、キリスト・イエスにおいて、望んでおられることではありません。しかし喜び、祈り、感謝。ここに神が喜ばれる生き方があります。

  青年時代の私は、残念なことに、この素晴らしい聖句を避けていました。どうして?と思いの方もあるでしょう。惹かれながら、あまりにも眩しかったからです。私は常に憂い、絶えず心に怒り、いつも悲観的であったからです。表面的には感謝の人であったようです。すぐ、「ありがとう」を言っていたからです。

  しかしある時、「ありがとう」という言葉は、「有り難い」ことへのお礼、よく考えると普通にはある筈がないことです。その有り難いことへの感謝の意を示す言葉であると知って、私はどれだけ有り難いと考えているかと気づかされたのです。

                              (1)
  さて、「いつも喜んでいなさい」とありました。これを書いたパウロは、後にフィリピの信徒に宛てた獄中書簡で、「たとえ私の血が注がれるとしても、私は喜びます。あなた方一同と共に喜びます。同様に、あなた方も喜びなさい。私と一緒に喜びなさい」と語りました。また、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と申しました。人に書くだけでなく、パウロ自身が喜びを失わぬ人であったのです。

  そういう人物に接したからでしょう。テサロニケの人たちも、パウロに影響を受けて、迫害の中で、「喜びをもってみ言葉を受け入れ」て信仰者になり、パウロたちに倣う者となったと1章で書かれています。

  そういう喜びをもって洗礼を受け、信仰に入った彼らに、今、手紙を閉じるにあたり、再び彼は「いつも喜んでいなさい」と語ったのです。何度も繰り返し言われると煩わしいものです。「うざったい」という若者ことばが暫らく前に流行りました。あれは多摩地方の言葉だったようで、それが若者文化の波に乗って全国に広がりました。地方の若者もよくそんな言葉を使っていました。ウジャウジャ、何度も言われるのは鬱陶しいということでしょう。

  パウロも言わば繰り返してウジャウジャ言っています。ところが彼の場合は、何故か「うざったく」聞こえないのです。

  彼が語る「いつも喜んでいなさい」は、お人好しのように何でも喜ぶのとは違って、神を本心から喜ぶこと、神のご支配、その存在を本気で喜ぶところがあります。で、「うざったい」よりも、光り輝いているからでしょう。

  それはどんな喜びか。それは、キリストが一粒の麦として地に落ちて死なれたことの喜びです。イエスが傷つき、一粒の麦として死なれた。その事件が傷ついた私の魂に癒しを与え、光を与えるからです。

  復活のキリストは体に「平和の傷」を持っておられました。手とわき腹に、釘と槍による深い傷を持ちながら、弟子たちに、「あなた方に平和があるように」と言われたからです。「平和の傷」です。まるで弟子たちこそ自分を裏切ったことで平和を失い傷ついていはすまいかと案じるかのように、傷を持ちつつ「あなた方に平和があるように」と語られました。彼らを責めても責め足りない筈が、彼らを責めずに自らに持たれる「平和の傷」。ここに喜びの水が湧き出る泉があります。すなわち私たちすべてに平和を与える赦しの泉が。

  「いつも喜んでいなさい」とは、いつも喜びの泉に立ち返りなさいという勧めでもあります。

  復活されたキリスト、この世の力、罪と悪の力に勝利されたキリストがおられること。それが喜びへと導くのです。闇はもはや闇でなく、主にあっては、夜も昼のように光り輝く。だから、「いつも喜んでいなさい」と彼は勧めるのです。

  キリストに根差したこの喜びが、私たちの魂に戦いを挑んで来るあらゆる形の悲観に打ち勝つことができるからです。でなければ悲観の虜になり、思い煩いに囚われ、青年時代の私のように常に憂い、絶えず怒り、いつも悲観的な考えに飲み込まれざるを得ないのです。

  私は個人的なことだけを言っているのではありません。今の世界を見る時、どこに喜びがあるでしょうか。子ども時代、配達された朝刊を新聞受けから取って父に届けました。新聞には、まっさらな喜びのニュースが書かれていると考えていた気がします。しかし今、朝刊を目にする度に却って喜びが消えます。せっかく気持ちよく目覚めたのに、新聞を目にして喜びが消え、新聞は暗さを家庭に持ち込む役目をしているようです。これは私だけでしょうか。

  ですから社会もまた、日毎に、喜びの泉に立ち返り、そこから出発する必要があるのではないでしょうか。「いつも喜んでいなさい。」励ましを与えるもの。生きる根本的な糧。これは信仰者だけでなく、万民に必要な基本的な姿勢と言っていいのではないでしょうか。

       (つづく)

                                        2012年9月16日



                                        板橋大山教会   上垣 勝



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