キリストの体は一つ


                       オランジュの古代劇場の入り口付近
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                                          キリストの体は一つ (下)
                                          エフェソ4章15-16節

                                          2012年9月10日(月)
                                          Aさん宅にて


   (前回から続く)
                              (2)
  さて彼は、今日の15、16節でも教会形成について述べて、「愛に根差して真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向って成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、各々の部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられて行くのです」と語りました。

  「愛に根差して真理を語」るのです。何を語るかと共に、どう語るかは極めて大事です。いかに真理であっても、ドスを突きつけるかのように真理を突きつけるのでは、しばしば人を傷つけます。その真理に自らが砕かれていなければなりません。

  箴言15章に「柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りを煽る」とあります。25章は、「穏やかに語る舌は骨をも砕く」と語ります。愛は柔らかさ、穏やかさを持っています。愛に根差す時に心に届きます。

  愛は社会の対人関係で大切ですが教会においても同じで、愛に根差して真理を語るように勧めます。彼がコリント前書13章で書いたように、「たとえ、山を動かす程の完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」からです。

  ただ真理に基づかぬ情だけの愛は、主観に流されがちですから、自らが真理に導かれ正される必要があります。それが14節にある、「未熟な者でなく、悪賢い人間のようにではなく、風のような変わりやすい教えではなく」ということであり、「愛に根差して真理を語」るということです。

                              (3)
  パウロは「キリストの体は一つ」と言います。

  私たちはキリストの体であり、教会はキリストの体ですが、この体は、「あらゆる節々が補い合うことによって、しっかり組み合わされ、結び合わされて、各々の部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられて行く」というのです。

  パウロが遺言として最も言わんとして、「招きにふさわしく歩みなさい」と語った中心はここにあります。教会は何人集っているかではありません。沢山人が来ていても、それだけでは不十分です。その部分、部分が補い合い、互いに愛の絆で結び付いた有機体として、しっかりと組み合わされ、結び合わされて、初めて神の栄光のために用いられて行くからです。家族も同様です。どんなに家柄が良く、多くの財を持っていても、家族一人一人が補い合い、支え合い、助け合っているのでなければ、意味は半減します。家柄も財も誇りでなく恥になりかねません。

  「あらゆる節々が補い合い」と言います。節々相互による補足です。キリストの体である教会には、この補い合いが大事です。獄中のパウロはこれを強調するのです。

  私は脱サラして30歳で牧師になり、九州の小さな教会に赴任しました。そこで、戦前ある大学を出た一人の技術者に出会いました。その方は旧満州練炭の研究をしていたようです。ご存知でしょうか、練炭は日本人が発明した固形燃料です。向こうには石炭や泥炭は無尽蔵にあります。練炭がなければ満州開拓は更に困難だったでしょう。それほど重要でした。その研究で分かったのは、練炭は細かい石炭を固めて造りますが、中々固まらず崩れ易い。わが家で使っていた安物の練炭は崩れ易かったですね。それを崩れないようにするには、石炭の粒子が大きいのと、細かいのを適当な割合で混ぜなければならない。大きい粒子だけでも、細かい粒子だけでも固まらず、細かいのと粗いのが互いに「補い合う」ことが重要だと言っておられました。なるほどと思いました。

  教会も、部分、部分が互いに補い合って立てられて行きます。コリント前書には、「見劣りがする所が大事だ」とか、「他より弱い部分が必要だ」とあります。非常に味のある言葉です。自分は全体だというようなことでなく、大きいものも小さいものもそれぞれに持ち味があり、持ちつ持たれつで補い合う。小さい者にも、先ほど述べた「キリストの命の明かり」が灯っているし、大きい者にも「命の明かり」が在る。信仰に大きい小さいがあるかどうかは知りません。人間的にも何が大きく何が小さいか分かりません。いずれにせよ、大きい者も、小さい者も、中くらいの者も、欠けある者も、「あらゆる節々が補い合い」、教会というキリストの体が組み合わされ、結び合わされて成長していくのです。

  今の政治を見ていると、殆ど同じようなことを考えているのに、自分の政党が優位になるような駆け引きに終始し、良識を失って党利党略で国民を困らせている。もう飽き飽きしているのが国民です。これじゃあ、企業が外国に逃げるよりも、有為な若者たちが外国に出て行って帰って来なくなります。

  「あらゆる節々が補い合い」成長して行くのですが、この時に、「あらゆる面で頭であるキリストに向って」ということが最高に重要です。この共通の方向性、共同の方向性。それはどんなに強調しても強調し過ぎることはありません。

                              (4)
  秋期集会に参加したいのに、加われない方が多かったものですから、急遽、今日、Aさん宅で平日礼拝を持つことにしました。秋期集会に出たいのに出れない。そのため、礼拝にも出れない。すると、体全体が組み合わされ、結び合わされということにならないと思ったからです。

  昨日集まった30数人の方と今日の私たちは、礼拝の日と時間、また場所も違います。だが、同じ礼拝に与り、同じ主を仰ぎ、体は一つ、霊は一つ、同じ一つの群れ、一つの礼拝共同体であることを確認し合いたいと思います。場所も日時も違っても、しっかり組み合わされ、結び合わさっていることを感謝したいと思います。

  パウロは獄中から書きました。遺言として書きました。キリストの体は一つである。エフェソの教会にとって今、最も大事なことは何か。あらゆる節々が補い合い、組み合わされ、結び合わされ、時代の中でその使命を果たして行くことができるように、彼は祈りつつ書いたのです。

      (完)


                                        板橋大山教会   上垣 勝



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