真理のかけら


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                                          キリストの体は一つ (上)
                                          エフェソ4章15-16節

                              (序)
  おはようございます。昨日、一昨日と31人(一部33人)の大所帯、6歳から86歳までの秋期集会でした。単独で行うのと違った味と出会いがあり、こんな試みも、たまに悪くないと感謝しました。

  昨日は礼拝前に早天祈祷会がありました。二つの東屋に分かれて早天祈祷会をする予定が、一つは工事中であったために31人が一団となって祈祷会をしました。目の前は左右に長く伸びた池があり、蓮の葉っぱが池の半分ほどに広がって白鳥や鴨たちが水辺で遊んでいます。

  司会者が全員祈りましょうと言ったので、こりゃあ1時間以上かかると恐ろしくなりましたが、「ここに来れて感謝します。アーメン」といった短い祈りで、「アーメン」、「アーメン」と次々進みました。目を閉じて聞いていると、「アーメン」という言葉は実に美しい言葉だと思いました。目を閉じているので、そのうち「アーメン」の声が、蛍が闇の中にポッ、ポッと灯りを灯しているような感じがして、「アーメン」を言う度に一人一人がキリストの命の明かりをポッ、ポッと灯しているみたいに感じました。感動しました。

                              (1)
  さて、エフェソ4章1節に、「主に結ばれて囚人となっている私は、あなた方に勧めます」とあります。この手紙には、著者問題というのがありますが、ここでは聖書が書いているままにパウロとしてお話し致します。

  この手紙は西暦60年頃、ローマの獄中から書かれた獄中書簡という形式をとっています。「囚人」とあるのですから、彼は今獄中にいるわけです。だが刑期何年すれば釈放されると確定した投獄ではありません。もしかすると釈放どころか、直ちに処刑されるかも知れない、予断の許されない状況下にあるのです。事実、彼はこの1年か2年後に殉教の死を遂げています。

  5章16節で、「時をよく用いなさい」と語っていますが、彼自身、何より「時」の大切なことを獄中で痛感していたでしょう。

  時は無制限にありません。限定された時間内で私たちは生きています。お年を召した方々にとって、残された手持ちの時は極めて大切という思いが強いでしょう。がんを患ってそれを痛感している人があります。時は金なりというのに、お金で買えませんし、お金のように増やせません。いや、病気や何かがあると、時が目減りします。それは神から授かるのみです。で、処刑の可能性があった彼は特に時の大切さを痛感したでしょう。

  また、「主に結ばれて囚人となっている私は、あなた方に勧めます」とあることから、彼は遺言の気持ちで書いているということです。いつ命奪われるか知れない。だから「時をよく用いよ」と書き、エフェソ教会の人たちに、一番大事なことを遺言として書くということです。「勧めます」とは、命を賭けて勧めるという意味をもっているでしょう。

  4章1節以下の続きを読みますと、「…神に招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなた方が、一つの希望に与るようにと招かれているのと同じです。」

  「神に招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」というのです。新婚時代というのは、互いに相手に相応(ふさわ)しくあろうとします。相応しくあろうとするので人間として成長もしますが、何よりそれによって互いの信頼関係が育ちます。これが大事で、信頼関係が生まれればどんな事も二人は担って行けます。エレミヤ書2章に「花嫁の時の愛」という言葉が出て来ますが、古今東西を問わず、花嫁の時の愛、新婚当初の「相応しくあろう」とする思いには真実がこもっています。熱が冷めると、いいとこを見せていただけかも知れませんが、しかし相応しくという最初の思いは偽りでなく、やはり貴いと思います。

  パウロは、主の招きにふさわしくキリストへの純真な愛を持って欲しいと、殉教を目前にエフェソの信徒たちに書き残すのです。

  その勧め、遺言の中心は、互いに高ぶらず、柔和で、寛容、寛大な心を持ち、互いに平和のきずなで堅く結ばれ、「一致を保つように努めなさい」ということです。教会の一致とキリストの体としての成長。そこに彼の最大の関心があります。

  また教会の一致を、人の体になぞらえて、体は手足や目や耳、色々な部分からなっているが、キリストの体である教会も色々な働きをする人から成って、一つの「キリストの体を造り上げてゆく」と語ります。

  ロマ書12章を見てみますと、「私たちの体は、多くの部分から成り立っており、部分はそれぞれ同じ働きをしているのではない。キリストに結ばれて、一つの体、一つのキリストの体を形成し、各自は互いに部分なのです」とあります。

  私たちはキリストの体の一部分であり、一部分としてキリストの体に属しているところに喜びがあるということです。ピアノと鍵盤の関係としても考えられます。一つの鍵盤は全体であることはできません。その鍵盤がどんなにいい音色でも、それがピアノ全体に代われません。不可能です。一つの鍵盤はピアノ全体の中で自分の役割を果たせば十分です。むしろ、一部分であることを喜び、感謝し、部分として仕えて生きる。部分であることに甘んじ、そこに徹する。そういうことで他の鍵盤が奏でる音と一緒に色々変化をつけて作曲され、素晴らしい音楽が奏でられます。

  牧師も真理のかけらです。真理全体ではない。だからキリストに仕える喜びがあります。こんな愚かな者、罪深い者が真理全体に仕えさせて頂いている恵みです。

  すなわち、パウロがここで説くのは、教会とは何か、教会は何に向って成長するか。今後何百年、何千年にも亘って地上で活動するだろう教会を、どう形成するかです。

  彼は、教会を決して軽んじません。教会は、地上における「キリストの体」と見ていますから、何百年、何千年、地上でどうあるかで、この世が、人類がどうなるかに決定的な影響を与えるからです。私たちも教会の存在意義を決して軽く見てはならないでしょう。

  ですから、教会自体は常にみ言葉に正され、塩味を失っていないかどうかを反省し、自分の内に塩を持って他と和らいで行く事が必要です。

      (つづく)

                                          2012年9月10日(月)
                                          Aさん宅にて


                                        板橋大山教会   上垣 勝



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