キリスト教と悟り、無…


                           リヨンの旧市街
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                                       天国はもう君の所に来ている (下)
                                       ルカ11章14-23節


     (前回から続く)
                              (3)
  さて、イエスは20節で、「しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所に来ているのだ」と、大変リアルに、聞く者の視覚に訴える語り方でおっしゃったのです。

  領土問題が先鋭化していますが、神の国とは、神の領土と言ったような空間的なものでなく神のご支配のことです。だから無神論者の上にも届きます。イスラム教徒の上にも、仏教徒の上にも神のご支配は届いています。イエスが語られた神の国は、恐ろしい国でなく福音です。私が悪霊を追い出しているのは、言わば悪の霊のような、隷属させる力からの人間の解放であり、恵みと平和、愛の支配による解放であり、神の国が来ているのは、人類への希望のしるしであると言われるのです。

  私が神の指で悪霊を追い出しているのだから、君たち(律法学者やファリサイ人)も180度方向転換して、悔い改めて神のご支配に服しなさい。私が行なっていることに対し、民衆のような素直な驚きを大切にし、偏見による人の子への非難中傷でなく、神のなされることに純粋に驚嘆して、栄光を神に帰すべきであると語られるのです。

  神の国、神のご支配はすでにあなたがたの所に来ています。たとえ、いかに強い者が武装して長く屋敷を治めていても、もっと強い者が襲って来て勝てば、武具を奪い屋敷を占領し分捕り品を人々に分配する。そのように既に悪の霊との戦いは、決着が着いている。矛を収め、悔い改め、生き方を180方向転換して神の国を信じなさいと勧めておられるのです。

  あなたがたは、既に神の恵みのご支配の下にある。今ここで、命の泉から水を飲み始めればいいのです。今日を、神が支配される日として信頼し、豊かな命の泉に深く根を下ろしなさい。イエスは愛を込めてそう説かれます。

  イエスは別の個所で、「神の許しがなければ、一羽の雀も地に落ちることはない」と語られました。ですから神のご支配は、雀一羽より遥かに貴い人間の所に恵み深く来ているわけで、そこまで愛され、守られ、受けとめられ、あなたたちのことが考え抜かれているということです。従って、今、この教会に集っておられる皆さんすべては、神から愛され、守られ、考え抜かれ、神の御心の中に受けとめられていると言うことです。

  信仰は悟りではありません。日本人なので信仰を悟りと勘違いし易いですが、悟りでなく、み言葉に日々新たに出会い、導かれることです。

  ブレーク・スルーという英語があります。壁を打ち破ること、貫通することなどを指し、科学などの大発見、大発明を言います。科学では、一度発見してブレーク・スルーすれば、それで解決したのです。しかし信仰では、昨日ブレーク・スルーしても今日また新たにブレーク・スルーしなければならない。人生問題はすべてそうです。ですから人生と科学は次元が違います。人生はもっと複雑で、信仰と姉妹関係にあるのです。

  悟りだと一度悟ったら、それは生涯有効でしょう。免許や身分証明書、許可証みたいなものです。Aっちゃんが一昨日、始めて25mを泳いだそうです。プールの端から端まで。バっちゃんが71年かかって今も達せられないことを6歳で達した。昨日は25mを2回だそうです。一度泳ぎを身体で覚えれば今後は泳げます。だが信仰はそうではない。今日新たに起こって来る問題に、今日ブレーク・スルー、問題解決して行かねばならない。神様との、キリストとの活きた関係にあるときブレーク・スルーして行けるのです。

  「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所に来ているのだ。」キリストとの活きた関係にあってブレーク・スルー、問題解決して行けるのですが、誤解してはなりません。キリストが神の指で悪霊を追い出し、神の国、神のご支配が私たちの所に来ているから、キリストにあって解決していけるのです。

  おかしいでしょうが、自分が解決しなくちゃあならない、自分が、自分がと息巻いていると、解決できないのです。そういう解決法ではありません。

  キリストのご支配を信じる。キリストの言葉に委ねる。すると心が鎮められ、悪の霊が消えて行くのです。神がそれを殺戮(さつりく)して下さる。「神の指で」と言われましたが、そんな指が誰の目にも見える筈はありません。「神の指」は、他の福音書では「神の霊」となっています。それは、キリストの言葉です。キリストのみ言葉が神の指です。その霊的な言葉が、私の中でいわく言い難い力をもって働いて下さり、私から悪の霊、悪しき思いを駆逐して下さり、不義や侮り、不誠実や無慈悲、嫉妬や虚無的な思い、ケンカ腰などを放擲(ほうてき)して下さり、新しき聖(きよ)き霊を、平和の霊を、キリストの霊、信仰の霊を授けて下さるのです。

  先ほど申しましたが、ロジェさんが、「色々と心配し、案ずる人間であったが、どうして内なる喜びと平和にいつも立ち戻ることができたか。…それは、その日一日を、神の日として受け入れたから」とあったのは、このことです。

  信仰者というのは、いつも振り出しにいます。信仰のプロなんていうのはない。信仰のプロなんて自称し始めると、かえって信仰を求める者の躓きになります。私たちはみなキリストの幼子です。

  私たちは取るに足りない人間です。だがそんな所にも、神のご支配が来て下さっている。勿体ない限りです。しかも、キリストのみ言葉を頂戴すると、平和が内面を訪れ、悪の思い、悪の霊が追い出されるのです。

  信仰は無になることではありません。これも日本人ですから関係づけ易いですが、人間は絶対無にはなれません。逆立ちしても不可能です。無になったと言った瞬間、そこに誤魔化しが混じっています。無になるのでなく、神を仰ぐのです。神に向かう。あるいは神に委ねる。委ねると心が静まります。

  これは私たちの巧妙な心理操作ではありません。心理操作ならやがて必ず化けの皮が剥(は)がされるでしょう。心理操作でなく、神のご支配が、イエス・キリストによって私たちの所に届いているからであって、神が私たちの心を治めて下さるのです。

  「しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所に来ているのだ。」そうです。神のご支配は、私たちの所に既に届いています。神の指は、キリストの霊的な言葉によって既に働いているのです。後は委ねさえすればいい。今日のみ言葉を生活の中で、福音として聞き、私たちに届いた喜ばしい訪れとして聞いていきましょう。

       (完)

                                        2012年8月26日




                                        板橋大山教会   上垣 勝



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