忍耐強くあれ


                            オーランジュ
                               ・



                                          忍耐強くあれ (下)
                                          Ⅰテサロニケ5章14-15節



  (前回からの続き)
                              (2)
  さて次の、「気落ちしている者たちを励ましなさい」との勧めは、何かのことで落胆している人、弱気になっている人を励まし、奮い立たせることを言っているのでしょう。

  しかしこの言葉にも幅があって、元の意味は、「臆病な者、小心な者」という意味を含んでいます。人間関係を恐れて臆病になり、人生にも臆病に小心になっている人たちが考えられているかも知れません。

  今日、私たちは情報の洪水の中で生きています。情報量はとても多いが人との実際的な関係は不得手で、どう人と関わっていいか分からず孤独になる人が多いと言います。臆病、小心、気落ち。2千年前に書かれながら、これは現代的な勧めと言えます。

  次の「弱い者たちを助けなさい」は、身体の弱さと共に、心の弱さ、また信仰の弱さを含んでいます。


  さて、パウロはそのように書いた後、それらを受けて、「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」と勧めたのです。彼は、「怠けている者たちを戒めなさい」と書き、放縦で、ふしだらな者たちを諌め訓戒せよと求めましたが、それにも拘らず、それらを受けて締めくくるこの言葉で、「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」と勧めている。これは見逃してはならない一言です。

  彼は、コリント書で「愛は忍耐強い。愛は情深い」と書きました。今日の所でも、彼は愛による忍耐をもって情深く接することを勧めているのです。愛なしの戒めや訓戒を言っていないのです。何事もせっかちであると事はうまく運びません。なぜなら、神が働いてい下さる前に、神より先に立って解決しようと焦ることがせっかちの正体です。忍耐強く、思い煩いを捨てて神の時を待つ。機が熟すのを待つ。それが、人々に対しての、パウロが14節で語ろうとすることです。

  箴言に、「忍耐をもって説けば君も言葉をいれる、柔らかな舌は骨を砕く」とあります。君とは君主や王のことです。「真に人間らしい奉仕は時間がかかる」と誰かが書いていました。時間と友だちになるというか、気長さが大事です。

                              (3)
  最後に、「誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行なうよう努めなさい」とありました。

  これは極めて大切な勧告だと私は思います。虫の居どころが悪いと、ムッとなり、カッとなるのが人の常です。いや、自分自身です。御し難いのは我が心です。国家間のことでも、大局的な見方が大事で、悪をもって悪に報いてはならないでしょう。

  「悪をもって悪に報いることのないように。…全ての人に、いつも善を行なうように」とありましたが、聖書のもう少し後にあるヤコブ書は、「人はすべて、聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきである」と語ります。時間をかけて相手によくよく耳を傾け、どこに躓きがあるのか、何か手立てはないのか、信頼をもって共に考え、善をもって歩んで行く。そういう善意の忍耐強さがここでも勧められていることでしょう。ですから、ここでも愛にあって生きることです

  聖書を正月から読み始めた方や4月から読み始めた方もいらっしゃるでしょか。今も続いておいででしょうか。たとえ挫折したとしても心配いりません。また今日から始めて下さい。Tさんのように通読百回とまで勧めません。だが一生でせめて一回は通読して下さい。

  ヨハネ福音書12章に、ベタニア村での出来事が書き留められています。ベタニアにはマルタとマリア、そしてハンセン病から助けられたラザロが住んでいました。この村はエルサレムからそう遠くありません。深い谷を向こうに渡れば、隣の山の上にエルサレムがあります。

  既に、イエスを殺す計略が進んでいましたが、イエスはその村に着くとラザロの家に行かれました。すると夕食が用意されましたが、姉妹のマリアが純粋で高価な1リットル弱のナルドの香油をもって来て、イエスの足に塗り、自分の髪の毛で拭いたのです。すると、香油の素晴らしい香りが家一杯に広がったのです。

  私はエルサレムでナルドの香油を塗られた広い石に、鼻を近づけて嗅いだ事があります。何という素晴らしい高貴な香りだったでしょう。しつこくまといつかない、風向き加減でふわっと馥郁と香ってくるあの気品ある香りは忘れられません。

  マリアは、弟のラザロのハンセン病を癒して貰って、イエスへの感謝と愛と献身の印として香油を捧げたのでしょう。イスカリオテのユダは、すぐ経済のことに考えが行き、「300デナリオンもの香油をどうして無駄にするのか」と、マリアを咎めました。現在のお金で約500万円です。

  でもマリアは全身全霊をもってイエス様のために感謝の捧げものをした。彼女は罪の女で、遊女であったとの説もあります。だが魂は清く、純粋であり、貧しい家庭のために弟を病気から救うため身を売って支えていた。

  イエスはマリアをかばって、彼女は私の葬りの準備をしてくれた。彼女のしたことは今後、世界中で語り継がれるだろうと言われたと書かれています。

  「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」、「悪をもって報いず…全ての人に、いつも善を行なうように。」全ての人への忍耐強い接し方と、いつも善を行なおうとすること。それらは全身全霊でナルドの香油をイエス様に捧げるのと同じです。それらがなされることによって、キリストに向けられた馥郁とした良い香りが家一杯にあふれ、教会という家やテサロニケの地域や世界にあふれることになるでしょう。

  韓国との関係、中国や台湾との関係で、「四海波荒し」の時代を迎えています。こういう時代に、この夏、韓国の中・高・大学生たちを20人程北支区に迎え、日本の中・高・大学生たちとの3泊4日の修養会を開いたのは大変意味あることでした。悪をもって悪にでなく、信頼を創り出す非常に意味ある集いだったと思います。言葉も習慣も考えも違う、異質な者との早いうちからの出会い。考えの違う者との出会いは、今後の日本人に欠かせないものです。

  世界では、シリアにおいても、アフリカにおいても、日中韓で起こっているのとは比べものにならない酷い紛争が続いています。もはや修復不可能、相手を赦すことはできないという状況があちこちの国で起こっています。

  ルワンダというアフリカの国では、紛争が長く続き、拡大し、ジェノサイドという恐ろしい皆殺しの民族紛争を経験しながら、キリスト者たちはしぶとく和解を創り出そうとしています。状況は極めて困難です。だがキリスト者たちは和解のために忍耐強く、悪をもって悪に報いず、全ての人に、いつも善を行なうようにという呼びかけを携えて、長く取り組んでいるようです。

  彼らのしぶとい努力は、かつて南アフリカアパルトヘイトと闘った教会の人たちのように、世界の人たちへの平和の呼び掛けになり、人類に平和と希望が生まれるきっかけになるかも知れないと言われています。日本での一般の報道は少しもそんなことを伝えませんが、そういう働きがキリスト者たちによって行なわれています。

  彼らのしぶとい和解への努力は、他でもありません。無条件的に私たちを受け入れて下さった、キリストの平和が彼らの心の中にあるからです。「私の平和をあなた方に与える」とおっしゃったイエスご自身が与っておられた平和です。

  そして、彼らもまた全身全霊で、その業を通して世界にキリストの平和がナルドの香油のように香り高く広がること。「私の平和を与える」と言われたキリストの真の平和が、人類のすべての心に送られて、一人一人の心に広がって行くことを願っていると言っていいでしょう。

  「お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行なうよう努めなさい」とパウロは語ったのです。善を行なうことが、お互いの間や当時の教会の中だけでなく、「すべての人に対しても、いつも善を」とあるように、教会の壁を越えて社会や世界の中でも行なわれていくなら幸いです。

     (完)

                                        2012年8月19日



                                        板橋大山教会   上垣 勝



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