怠けていいんです


                          オーランジュ野外劇場         (クリックすると拡大)
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                                          忍耐強くあれ (上)
                                          Ⅰテサロニケ5章14-15節


                              (1)
  パウロは、ギリシャマケドニア地方に生まれた小さな教会が、当時の暗闇のような世界にあって、夜空に輝く星のごとく輝くようにアドバイスして来ました。今日の個所でも、それに関連してキリスト者たちの具体的な在り方が語られています。

  14節に、「兄弟たち、あなた方に勧めます」とあります。先週の12節は、「兄弟たち、あなた方にお願いします」とありました。「お願いします」と「勧めます」と、パウロはニュアンスを違えて語っています。

  先週の所では、言わば頭を下げてお願いしたいと語りました。ところが今日の所では、「勧めます」と、やや迫る所があります。元のギリシャ語も「強く迫る、勧告する、訓戒する」というやや命令的な言葉が使われています。

  何を勧めるのか。1つは「怠けている者たちを戒めなさい」。2つ目は「気落ちしている者たちを励ましなさい」。3つ目は「弱い者たちを助けなさい」。そして「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」です。

  「怠けている者たちを戒めなさい。」こう聞くと、教会に来てまで「怠けている者たち」と指図されるのか。もっと楽にさせて欲しいと、今日では声が聞こえて来る気も致します。ただ原文を見ましたら、「怠けている者」というのは、放縦である者、ふしだらな者、けじめがつかない者、まともでない者となっていました。彼らを戒めよ、諌めよ、訓戒せよと語っているようです。

  ですから、「怠けている者たちを戒めなさい」という日本語から受ける感じと、元の意味は違います。ですから皆さん、多少、怠けていいんです。安心下さい。たまに骨休みとか息抜きも必要です。聖書はそんなことまでガチガチ、ガミガミ言っているのではない。信仰は一つの解放ですから、むしろ勤勉の呪縛から解かれて、ゆったりすることがいいと思います。

  先週、Aさんをお訪ねして暫らく語って来ました。お元気ですが未だ目まいがして、礼拝にお出になれません。その後、午後の一番暑い時間でしたが、急に思い立って、自転車で戸田橋に出て、そこから荒川の堤を上流に向かい、新大宮バイパスをくぐって和光市に入り、外環自動車道をくぐって朝霞市に入り、武蔵野線が走る志木辺りまでサイクリングしました。

  なぜ行ったか。失われた一匹の羊でなく、申し訳ありません、急に思い立って一匹のキリギリスの鳴き声を聞きたくなって探しに行ったんです。ところが驚きました。荒川の河原に出てもどこにも鳴き声がしません。埼玉に入れば「ど田舎」と言われるので、私が言っているのじゃあありませんよ、聞けると思って埼玉に入ったんですが、一匹の鳴き声すら聞こえないのです。聞けるまで行ってみようと思って、更に遠くまで行って、とうとう武蔵野線に達しましたが一匹もいませんでした。実に悲しかったです。

  それで家に帰って調べました。すると、日本古来から人々に親しまれて来たキリギリスが、何年も前に板橋区から絶滅していたのです。イソップ童話じゃあありませんが、蟻は逞しく生きていますが、キリギリスは死に絶えてしまった。本当に悲しくショックでした。彼らのせいでなく農薬や除草剤が原因でしょう。人間が原因です。自然な草むらを無くしたことも原因でしょう。

  漢字のことですが、目(め)篇に眞、眞理の眞、難しい方の眞と書いて瞋る(いかる)と読みます。心が奴(やっこ)になって狂って怒る怒りでなく、怒って目を見張ること、睨(にら)んだ目つきで怒る様(さま)を表わします。私はその瞋り、悲しみを催しました。

  今、言おうとしているのは、余りにも余裕のないガチガチの勤勉だと、現在起こっている時代の情況が分からないことがあるのです。しかし、ゆったりすると自ずと分からしめられることがある。「静まって、我の神たるを知れ」と詩編にあります。動き回ってばかりでなく、静かに神の前に静まることによって得る知です。人間はこれが大事です。

  日本人の勤勉や働き過ぎはヨーロッパでは定評があります。自分たちはこれまで長いバカンスを取れていたのに、日本人がヨーロッパに入って来ると自分たちのバカンスまで短くなる。そんな冗談めいたことが話題になります。

  横にそれましたが、信仰生活というのは、律法主義的な「ネバならない」とかガチガチの律法主義的な勤勉さから解放されて、くつろぎのある生活を選択することです。人生は選択です。主に仕える生活は偶像に仕えるのでなく、偶像から解放された生活です。お金、マモンに仕えると心が荒立って、ガチガチ、ガミガミの生活が待っていますが、神に仕え、偶像に決別すると、ゆとり、和らぎが生まれるのです。

  少しは怠けましょうというところから脱線しましたが、キリストを信じることによって与えられる解放は、放縦やふしだら、けじめがなくなることではありません。むしろ信仰と共にゆとりのある健やかさが生まれます。

     (つづく)

                                        2012年8月19日



                                        板橋大山教会   上垣 勝



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