自分を掛ける人があるとき影響されます


         アヴィニヨン演劇祭の街はポスターであふれ、ポスター以上に色々な国語で街はあふれます。
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                                           互いに平和であれ (中)
                                           Ⅰテサロニケ5章12-13節



      (前回から続く)
                              (1)
  パウロの時代はまだキリスト教誕生後まもない教会の揺籃期です。パウロが宛てたこのテサロニケ教会も生まれてあまり年月が経ちません。今、この教会はしっかり地域に根差し、そこで根を生やすことが課題だったでしょう。

  地域に根を下ろすためにこそ、教会は何よりもキリストに根を深く下ろさなければならない。パウロはそう考えてこの手紙を書いたと思われます。自分の存在の根幹を明らかにして、実際それに生きている。それなしには人々に信仰を勧めることもできないし、地域の中に根ざせない。

  ですから、この手紙を締めくくるにあたって、「兄弟たち、あなた方にお願いします」と書いたのです。彼は、「兄弟たち」と親しみを込めながら、「お願いします」と頭を下げて頼んでいる訳です。

  彼が伝道し建設した教会です。努力が無駄にならず、主の言葉を堅く持ってその地方に輝いて欲しい。1章に書かれているように、現在、テサロニケ教会の信仰は、この地方の多くのキリスト者の模範になり、励ましになっているが、信仰の連帯がますます本物になるようにと彼は願う訳です。

  パウロは5章4節以下で、「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。あなたがたは光の子、昼の子だからです」と書きました。ですから、今後とも、キリストの光に照らされて生きて欲しい。そういう思いがここに込められています。

  そこで彼は、「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい」と勧めたのです。この「導き戒めている人々」とあるのは、当時の教会の教師職にある人たちだけを指すのでなく、もっと広く、霊的な、信仰的な、教育や奉仕や伝道面の信仰のリーダーたちです。

  今日の教会でいえば、牧師だけでなく、教会の伝道や牧会委員長、社会委員長、私たちの教会には作っていませんが教育委員長、教会学校長など、信徒であってそれらの職を担っている人たちと考えていいでしょう。「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々」です。教会役員として、色んな意味での責任を負い、率先して教会に仕えている人たちとも考えられます。

  役員会はある時、私たちの責任でないある事柄でかなりの経済的負担を負うことになりました。その時、私は役員の皆さんに提案し、牧師と共に役員と役員経験者たちにもそれを共同で担っていただきました。自腹を切ったのです。この「導き戒めている人々」は、経済だけでなく、隠れた所で自腹を切っても教会を祈り支え働いている人たちでしょう。

  「主に結ばれた者として」とあるのは、これまでも何度かこの手紙に出て来た言葉です。その時に申しましたが、「主に結ばれた者として」とあるのは、キリストとの結びつき、絆のことですが、その絆は、「たとえ断頭台に立っても断ち切れない程の絆」である。キリストが十字架で命を捨て、私たちをご自身に堅く結びつけて下さった。そういう恵みの堅い絆を、「主に結ばれた」という言葉は指しています。断頭台に立っても、イエス様との関係は永遠に断ち切られることはないのです。

  また「結ばれた者として」と、受身形で言われているのは、私たちがイエスに結びついたのでなく、イエス様が私たちをご自分に結び付けて下さった、その神の愛の確かさを示す言葉です。

  そのような者として、彼らは労苦し、「導き戒めている」というのです。彼らはキリストの恵みに捕えられ、キリストの愛に応えて懸命に働いていると、パウロは言いたいのでしょう。むろん彼らにも欠点はあるかも知れません。だが欠けも限界も持ちながら、労苦し、力を尽くして主に仕えている。

  だから、「この人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい」と勧めるのです。

  そもそも、労苦というのは隠れてなされることが多いです。皆の目に触れないから労苦になります。分かってもらえない。でも、それがなされるのは、進んで人々に仕えるためです。だが、仕えるためには、目に見えない所で、祈りも含む色んな作業が要ります。

  もしこの人々が「労苦」を怠って力を尽くさなければ、主の前で反省しなければなりません。リーダーは責任があります。報酬のためではありません。自分がいかに「主に結ばれ、愛された者であるか」ということを今一度思い起し、繰り返して反芻することです。主の前に出て、悔い改めて出直すことです。

  パウロは、これまでの彼自身の手痛い経験をもとに書いていると思われます。すなわちリーダーとして、「導き戒める」ことの難しさです。それは教会以外でも、職場や個人の関係の中でも私たちはしばしば経験していることではないでしょうか。

  誰かが「導き戒め」なければなりません。時にはきつく戒めることも必要です。だが、「導き戒め」ると、恨まれたり、憎まれたり、関係が疎遠になったりすることがあるのを知っていますから、多くの人はそれを避けるのです。責任は取らない。だが、パウロがここで挙げる人たちは「主に結ばれた者として」、わが身の損失になっても、それを行なっているのです。

  こういう人々こそ、真に責任的に教会を担っている教会の核になる人々です。こういう人々を重んじなければ、教会は確固として建ちません。中心核があって木は大きく育ちます。名誉職のように考え、良い場面では顔を出すが難しい場面は逃げる人たちでは、その地域に信用される教会は建ちません。だが、福音に忠実に生き、逃げない本物の信仰者に出会ったなら、次第に忠実さとは何か、主の前に生きるとは何かが明らかになり、自らをかける人々が生まれて来るでしょう。

  「重んじ」とあるのは、単純に、正当に評価することです。それが労苦であり、時には難しい業であることを認めることです。自分がその立場であればどうするか。どうなるか。言うは易し、行うは難しです。リーダーも人間であり、失敗も、欠点も、弱さもある、並みの人間であるからです。むろん彼はリーダーの思い上がりを許している訳ではありません。「主に結ばれた者」ということであっても、思い上がっていれば、人を「導き戒める」ことはできません。

  「そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい」と語ります。別の訳は、「尊敬と愛とをもって応えてやって欲しい」とありました。

  一言でいうなら、テサロニケ教会が成熟した教会になることを願っていると言っていいでしょう。真の成熟は愛にあります。人の弱さに寛大になること。批判、攻撃でなく、寛容に温かい目で大きく包むこと。それはリーダーの持つべき態度であると共に、リーダーに対する接し方においても必要であるとパウロは言うのです。この辺にパウロの色んな経験が滲み出ているでしょう。

  リーダーを甘やかすわけではありません。リーダーも甘えてはなりません。だが、真に「教会のために労苦し、わが身の損になっても、責任を担い、導き戒めている」人たちに対して、理解をもってしっかり支えなければ教会は立ちいきません。批判眼だけでは、リーダーはやる気をなくします。

  パウロはリーダー中のリーダーですが、この微妙な言いにくい事柄を、彼はテサロニケ教会に語りました。キリスト教の揺籃期、リーダーを支えることは私たちが考える以上に大切なことであったかも知れません。

     (つづく)

                                        2012年8月12日


                                        板橋大山教会   上垣 勝



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