一滴の涙も無駄にならない


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                                           捨て石を用いる (下)
                                           詩編118篇1-29節
                                           黙示録7章13-17節


   (前回からつづく)
                              (2)
  この詩編は、イエス・キリストを差し示す預言になりました。イエスは、ファリサイ人や律法学者、長老、大祭司などユダヤの宗教家や国造りたち、国家を建てる専門家たちから捨てられました。十字架に付けられて呪われ、死をもって捨てられました。「お前じゃあない。お前は要らぬ。」厳しく拒絶されました。

  だが、退けられたキリストがやがて世界という家の土台に、最も重要な隅の親石になった。それは、神がなさったことであって、決して合理的なことではありません。ですから、この信仰者は「これは主のみ業、私たちの目には驚くべきこと」と語るのです。プロ中のプロの判断。鋭く峻別する究極の選択眼。それによって退けられ、捨てられ、除けられたものが、隅の親石になったというのは、「主のみ業、私たちの目には驚くべきこと」以外ではありません。


  テゼのブラザーの一人にブラザー・ギランという人がいます。この方はアジア地域を担当しているブラザーで、毎年、渡り鳥のように東南アジアの島々や国々を転々と回り、北上して中国、日本、韓国と訪ねて集いをし、やがて再び古巣のフランスに帰って行きます。

  ギランさんは趣味でしょうか、コラージュを作っておられます。コラージュというのはピカソたちが始めた芸術表現です。昔、テゼの近くのマコンという町の病院で夜勤をしていた頃に作り始め、かれこれ50年作っているそうです。

  ギランさんの作品は、テゼの丘で一瞬ひらめいた事柄や、アジアの諸国を旅する間にチラッと目に映った出来事などを作品にしたもので、50年間に、日記帳のようにたまって作品展をしたようです。

  コラージュには色んな素材が使われます。ギランさんは、要らなくなって捨てられた紙や段ボールなど、もう大切にされなくなったものや不要品を拾って来て、作品を作るそうです。テゼのブラザーには、彼のような医者もいれば芸術家もいる。建築家もコンピューター技師も音楽家もいるし、むろん神学者もいれば、農業をするブラザーもいる訳ですが、誰かブラザーが捨てたものを拾って来て作品を作るのだそうで、中でも芸術家のブラザーから不要とされたものを好んで拾って来て、作るようです。

  彼が語るメッセージは、神の目にはどんな者も失われていないということでしょう。彼は、「私たちの涙も、神の目には格別に尊い」と考えているようです。イザヤ書に、「私の目にはあなたは価高く、貴い」とあります。「私はあなたを国々の光とする」ともあります。また、「私が顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、私の言葉におののく人」とあります。

  人に捨てられた者も、砕かれた者も、神は再生してお使いになると言うメッセージでしょう。誰も恐れる必要はないのです。神の目には、あなたは価高く、貴い。自分を過小評価し、卑しめてはならない。誇る必要も、偉張ることも不要である。家を建てるプロ、専門家が退けた石にも神は新しい光を当ててお使いになり、隅の親石とされるのです。

                              (3)
  先程お読み頂いた黙示録7章は、終末的に起こる事柄が天上で起こる出来事として黙示文学的に語られます。長老の一人が、「この白い衣を来た者たちは誰か。…彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と語ります。

  「大きな苦難を通って来た者」とあるのは、最後まで信仰を貫いたキリストの証人たち、即ち殉教者たちです。彼らは世の支配者からゴミのように扱われ、塵のように排除された人たちでした。だが、今や主が彼らを隅の親石とされるのです。この小なる者は、決して大なる者ではないが、神の栄光のため、み国のために用いられるのです。ですから、歓喜の呼びかけがここにあります。

  彼らは殉教で赤く染まった血の衣を、小羊キリストの血で洗ったのです。キリストの血で洗うと、赤く染まった衣が純白にされ、キリストによって潔白とされ、白さ、純潔、平和の徴を帯びる者とされ、15節にあるように、神の玉座の前にいて仕える者とされ、中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉に導かれ、彼らの目から永遠に涙がぬぐわれる。7章は神による最後的な決着をそういう喜びのイメージで語っています。

  神の国は、真珠やダイヤモンドやエメラルドなど、高価な宝石で輝いているのではありません。苦難のはざまで涙した人や小羊の血で衣を洗って純白にされた人。天国は私たちのこぼした涙、愛の涙、労苦の涙で光り、まばゆく輝いているのです。神の前では、いと小さい者たちの一滴の涙も無駄になりません。却って血も涙も汗も光り輝くものとして価高く用いられるのです。ギランさんのコラージュのように。

  「彼らの目から涙をことごとく拭われる」とは、そういう意味です。

  キリストの弟子たちをご覧ください。キリストは、彼らの失敗をも用いてそれに意味を添えられました。ペテロやトマス、またヤコブヨハネなどゼベダイの子らの失敗や不面目や不信仰。捨てられた石をもお用いになって、教会を建てていかれました。

  今の時代は、誰しも目がくらむほどせわしく進んでいますし、競争が激化し、更に一段と速さを増しています。この異常さはどこかで断たれなければなりませんが、こういう時代だからこそ、私たちは平和の水辺、オアシスで一休みし、憩うことが必要です。世界をすべ治める方。人間を超え、人工的なせわしい世界を超えた永遠なるお方に、深く根ざして生きなければなりません。でなければ根が乾きます。命が枯渇し、涸れてしまいます。

  「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主のみ業、私たちの目には驚くべきこと」とは、人間を超える方が永遠に実在されるとのメッセージでしょう。

  時代がどんなに忙しくなっても、誰も私たちから人間性を奪い取ることはできません。私たちはあくまで神の前に静まり、神の前に生きる人間として、人間らしさを失わず歩んで行きたいと思います。

  詩編118篇24節は語ります。「今日こそ、主のみ業の日。今日を喜び、喜び躍ろう。」捨て石をも用いられる主のみ業に目を留めて、今日を信じ、今日を喜び、今日を感謝して生きたいと思います。

      (完)

                                        2012年8月5日


                                        板橋大山教会   上垣 勝



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