うなり始めた東大寺の鐘


       オーランジュの凱旋門世界遺産)を見上げていると2000年前のローマ人の声が聞こえて来ました。
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                                        探せ、そうすれば見出す (中)
                                        ルカ11章5―13節
        
                              (1)
  さて今日の所は、前回の「主の祈り」に続き、イエスが祈りについてお教えになった個所です。

  先ずイエスは、真夜中に友人からパンを借りた人の譬えを語られました。真夜中に旅にある友だちが着いたが、非常に空腹であった。だが家にはパンも何もない。それで友人の家に行き、すっかり寝静まっているに拘わらず扉をドンドン叩いて、パンを3つ貸してくれと頼んだ。全く迷惑な話です。だが、中々返事がなかった。更に叩き続けると、友人は中から、「面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちは今まで騒いだり、泣いたりしていたが私の傍でやっと寝入った。今更起きて君に何かをあげるわけにはいかないよ」と、叱るような声で答えた。

  ところがイエスは、「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、執拗に頼めば、起きて必要なものを何でも与えるであろう」と言われたというのです。どんなに常識外れの迷惑でも、執拗に頼めば人は応じてくれると人の心理を突かれたのです。

  状況は、説明しなくてもお分かりでしょう。当時の普通の家は寝室は一つです。皆が休めば、灯は消しますから、部屋は真っ暗です。赤ちゃんがアンアン泣いて、なかなか眠ってくれなかった。やっと今寝入ったばかりで、ゴソゴソすればまた目を覚ましてしまう。小さな子どもをもつ家庭の風景はいつの時代、どこの国でもほぼ同じです。こんな真夜中に起きれば、明日は仕事にならない。そんな苦情も聞こえそうです。

  私は学生で、妻が教師をしていたので、夜中に赤ちゃんが泣き出すと私が起きてあやすことがよくありました。妻は一旦眠ればどんなことがあっても目を覚まさない幸福な女性です。真夜中に、気づかれずにそっと子どもを外に連れ出し、公園でブランコをしたこともありました。イクメンは40年前からありましたよ。ブランコしながら親の責任の重さを噛みしめていました。

  「もう戸は閉めたし」とありました。今は、戸締りは簡単です。しかし大昔は、泥棒に入られないために戸締りは大変でした。閂があれば簡単ですが、それは鉄が普及してからです。普通は突っかえ棒をしても、戸を押せば倒れますから、手前からも突っかえ棒や重いもので押さえて置かなければなりません。

  子どもたちを起こさないように起き、灯をつけ、戸口の重い物をどけるのは至って面倒です。

  イエスは、ここまで譬えを語って来て、友達だからというのでは起きて与えなくても、「執拗に頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」とおっしゃって、今日の中心聖句である祈りについて、信仰について、「そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる。…魚を欲しがる子供に、…蛇を与える父親がいるだろうか。…卵を欲しがるのに、サソリを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えて下さる」と言われたのです。

  イエスは執拗に叩き続けること。開けられるまで叩く、執拗な祈りを教えられたのです。神に対し迷惑過ぎる程、ずうずうしくあれとも聞こえます。

  イエス様は18章のやもめと裁判官の譬えでも、気を落とさず絶えず祈れと教えられました。やもめの執拗な求めに、人を人とも思わない裁判官も根負けしたというのです。旧約の代表的人物アブラハムもロトの家族を救うために、粘り強い執拗な求めをしたことが書かれています。ソドムを救うために、50人から始めて、45人、40人と値切って、10人の正しい人がいれば滅ぼさないと神様に約束させていく。彼は、人を助けるために実に執拗です。

  聖書は祈りについて、形だけの形式的な宗教的祈りを説いていません。むしろ自分の存在をかけた祈りを語っています。そして事実、祈りのお手本と言われる詩編の大半は、深い淵に置かれたり、敵の脅威にさらされたり、虐げられたりする中で、実存をかけて祈る信仰者の祈りが記されています。たとえ牧師だと言っても、肩書では与えられません。真剣に向かうことが不可欠です。礼拝で祈る「主の祈り」より、イエスの実際に話された「主の祈り」のほうが非常に迫力があります。礼拝のはやはりどこか儀式になっています。

  むろん、祈りによって神様を動かそうというのは論外です。神は人間の僕や奴隷ではありません。自動販売機のように、一定のものを入れたら聞き入れられると言うことでもありません。「執拗に」とはそういうことではないでしょう。

  先週の個所では、祈りの内容が語られていました。今日の個所では、祈りの姿勢や態度が語られています。祈りの言葉使い、言い方などはイエスは問題にされません。本心から出た祈りを、自分が今、最も祈らなければならないことを避けず、神に信頼して、真剣に祈ることが大事です。

                              (2)
  「求めなさい。探しなさい。門を叩きなさい」とありましたが、このギリシャ語は「求め続よ、探し続よ、門を叩き続けよ」と訳すことができ、実際そう訳している聖書もあります。13節も、「天の父は求め続ける者に聖霊を与えて下さる」と訳している英訳聖書もあります。

  また「執拗に頼めば」という言葉は、しつこく要求すること、粘り強く頼むこと、恥知らずとも思える程に頼むと言う意味です。イエスは、あえてそういう言葉を使用しておられます。

  昔、ある大学の神学部の先生が、間もなく卒業して牧師になる学生を連れて奈良の東大寺に行きました。あそこにはでっかい何百貫もの釣鐘があります。鐘突き棒も太くデカイです。教授は鐘楼に上って暫らくそれを見ていたが、持っていたステッキで鐘を叩いた。でも鐘はウンとも、スンとも言いません。巨大な鐘をステッキで叩こうなんて無理です。すると教授は、今度は何百貫もの釣鐘を連続して叩き始めた。懸命に叩き続けていると、いつの間にか、ゴ~~ンという微かな音がし始めたのです。数回じゃあ何も音はしない。しかし何度も何度も、執拗に懸命に叩き続けていると、地から湧き上がって来るようなゴ~~ンという音がし始めた。教授は、「皆さんに必要なのは、これです」と言って、教会に遣わされようとしている学生たちに、「君たちは、自らこのように求め、探し、叩き続けて下さい」と語ったのです。

  でも、こういうのはご利益宗教にならないか。ご利益宗教をイエスは説いておられないのでないか。確かにそうでしょう。しかし、イエスはご利益宗教云々を遥かに超えて、「求めよ、さらば与えられん。探せ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」と約束しておられるのです。

         (つづく)

                                        2012年7月29日


                                        板橋大山教会   上垣 勝



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