塔和子さん 存在の影の薄い者にも
オーランジュの凱旋門は世界遺産と思えない至近距離で無料で見れます。
戦勝記念レリーフと共に、この幾何学模様のレリーフに魅了されます。
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祈るイエス (下)
ルカ11章1-4節
(前回から続く)
(5)
イエスは、次の祈りでその事を更に集中的に教えられました。
「私たちに必要な糧を毎日与えて下さい。」「私たち」であって、「私」ではありません。むしろ「私の糧を」と自分の所に糧を限定し、独占しようとする所に世界の問題があり、不正が起こります。
「私たちに必要な糧。」「私たち」とは地上に生きる全ての人です。糧の問題が少数者たちの独占の問題にするべきでなく、隣人愛の問題であることをイエスは鋭く示されるのです。
食べること。腹を満たすこと。口に食べ物を運ぶこと。それが貪りの問題になるのか、愛の問題になるのか。そこに人類の将来がかかっているのです。人間の生きる姿勢、尊厳、世界の根本的な問題がかかっているのです。世界が食料問題を隣人愛の問題として教育されるかどうか、これは学校教育の問題です。
「主の祈り」は、ただ宗教的な儀式の言葉ではありません。ヴィヴィッドな現実の世界の中で祈られる祈りです。
(6)
「私たちの罪を赦して下さい。私たちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから。」
イエスは弟子たちに、自分自身の罪を深く、重く考える祈りであれと教えられたのです。いかに自分が罪に染み、自己中心の者であり、他を押しのける存在か。自分の罪に向き合い、自分自身と向き合うよう、「私の罪を、私たちの罪を赦して下さい」と祈るように教えられたのです。
なぜ「私たちの罪を赦して下さい」と先ず自分の罪が赦されるように祈るのでしょう。どうして、「私たちは自分に負い目のある人を、皆赦しますから、私たちの罪を赦して下さい」ではないのでしょう。それともどちらも同じでしょうか。
「私たちの罪を赦して下さい。」それが最も心にかかる問題だからです。これが解決されねば、安心して世を去ることが出来ないからです。イエスは人の心を知っておられます。また、神の前に罪を告白しないと、まっとうな人として生きることが出来ないからです。何をしても偽善になり、善いことをすればするほど偽善になるからです。
私の罪でなく、「私たちの罪を」となっているのは、罪はしばしば共同で行われるからです。単独で行われる罪もありますが、共同で行われる罪は計画的で知能的で、実に悪辣になる場合があります。しかも「私たちの罪」の場合は、しばしばその主導者の罪がうまく逃れられるようになっている場合が多いです。
「私たちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから」と祈るのは、自分の罪が赦してください、自分に負い目のある人を赦しますのでと、神と取引をしているのではありません。そうではなくて、それほど、自分の罪の重みが重いからです。私たちの目や心は、人に行きがちです。だが自分に、自分の罪に目を向けるのです。責任転嫁する自分に目を向け、自分の罪を見るのを避けて来た自分に目を向けて、「私たちの罪を赦して下さい」と祈りなさいと言われるのです。この告白をする時に、私たちに真実が生まれるからです。
自分の罪を問題にせず、この告白を避けて生きている私は、実はどんなに薄っぺらであるか。また不真実であるか。罪はこの不真実にあります。責任を隠す言い逃れ、責任転嫁です。これは大津市のいじめ問題でも、加害者と中学校と教育委員会を巻き込んで起こっています。
大島青松園は瀬戸内海の小島にあります。名前は大島ですが、二十四の瞳で有名な小豆島の隣にある小島です。そのハンセン氏病の療養所に塔(とう)和子さんという80歳を越えた方が入っておられます。14歳の時、昭和18年に入所して60数年、島で暮らす方です。今は口を大きく開けて、仰向けに寝かされて車椅子の生活です。
「深い目で、
今日生きていたのかと問われると、
どうも生きてはいなかったようなのです。
では、死んでいたのかと問われると、
どうも死んでもいなかったようなのです。
足跡を探しに出かけたけど、どこにもなかった。
ふと暗い庭を見ると、洗濯物がひらひらしていて、
やっと今日のアリバイを思い出した。
私は確かに洗濯をして干したのでした。
それはこの洗濯物がわずかに証明してくれます。
信頼する神様、どうか、生きていたのだという証明書を、
一枚だけ私に下さい。
それがないと、
私はこの過剰な時代に、
うすいうすい、
存在のかげさえ、
残すことができないのです。」
「私たちの罪を赦して下さい。」そのように、真実に神の前に出て告白する。静まって告白する。その時、うすい薄い、存在の影さえ薄く思われる者にも生きているという証明書が、生きたという証明書が与えられるかも知れません。
神の国、天国には、罪を犯したことのない人などいません。皆、罪を犯した人たちだけです。ただ、その罪が、キリストの血で贖い取られた罪人たちです。
(7)
最後に、「私たちを誘惑に遭わせないでください」と祈りなさいと、イエスは言われました。なぜでしょう。
これ以上、罪を犯すことがないようにさせて下さい。誘惑に遭わせないで下さいとの祈りです。私は弱いのです。罪を犯しやすいのです。私を弱さから守って下さいとの祈りです
しかもそれは私だけの問題でなく、「私たちを誘惑に遭わせないで下さい」とあるように、すべての人が弱いのです。脆(もろ)いのです。ことがあるとヒビが入るのです。割れ易いのです。そのような脆さや弱さがあの人にも、この人にも、自分にもあることを知って人を配慮していく。それが愛につながり、それを祈って行くのです。
(8)
以上、イエスはご自分の後に続いて私たちが復唱し、祈るように教えられました。私たちも「アッバ、父よ」と、イエスの父なる神に父と呼びかけ、信頼をもって祈りなさいとお教え下さったのです。「主の祈り」を祈る時、イエスの愛を感じます。
イエスの教会に必須なことは祈りです。個人的な祈りと共に、「われらの祈り」が特にここで教えられた祈りです。この祈りは、世界の「われら」を誰も例外なく大きく包む祈りです。隣人を包む「われら」の祈りです。祈りが、全世界を包む「われら」の祈りであればある程、祈りはリアリティを持ちます。その信仰もまたリアリティを持つようになります。
(完)
2012年7月22日
板橋大山教会 上垣 勝
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