信仰に何程の意味があるのでしょう


                           オーランジュの市街
                               ・



                                             祈るイエス (中)
                                             ルカ11章1-4節


     (前回から続く)
                              (3)
  「父よ、み名が崇められますように。」あなたのみ名こそ、この世とこの私において、まことに尊く崇められるものになりますようにという意味です。この世の人たちだけではありません。私においても、です。私を含まないで、「父よ、み名が崇められますように」と祈る祈りは無意味です。あなたは天地万物の主であられるから、いかなるものにもまさって第1とし、賛美しますようにという意味です。

  今から約450年前に書かれた「ハイデルベルグの信仰問答」の第1問は、「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ1つの慰めは何ですか」と問うています。その答えは、「私が、身も魂も、生きている時も死ぬ時も、私のものではなく、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることであります」とあります。

  この身と魂は、むろん私のものです。私は自分自身に責任があり、自分を自分のものとする権利があります。人権は私固有のものです。だが別の見方からは、自分自身も自分にままならぬのが私たちです。病気もそうでしょう。性格もそうでしょう。知能もそうです。

  Aちゃんは最近、障碍を持っていることが判明しました。まだはっきりした言葉を発することができません。普通の小学校に入れるかどうか分からないです。かなりの遅れがあります。今後普通の子らとますます開いて行くでしょう。大人になっても結婚はできないでしょう。脳細胞組織がどこかほんのちょこっとだけ、繋(つな)がっていないか、働いていないか、ほんの僅か何か間違いがある訳で正常に働きません。一生こうでしょう。残念だし、自分の意思を人生の中で十分表現できないのは、本当にかわいそうで心が痛みます。でもこれは彼の責任じゃあない。家族の責任でもない。恐らく彼を取り上げた、産婦人科医の責任でもないでしょう。しかしまた、これには何か深い意味があると思っています。必ず神さまの意図があると思っています。

  目が見えない人に向って、「よく見ろ、ちゃんと見ろ」って幾ら叱っても、怒鳴っても、見ることはできません。彼自身は自分をどうすることもできない。

  ですから、「私が、…私のものではなく、私の真実な主イエス・キリストのものである」という告白は、Aちゃんにとっても唯一の慰めだと言えるのではないでしょうか。根本的には、私たちは皆、「私が、…私のものではなく、私の真実な主イエス・キリストのものである」というのが、人間の真実の赤裸々な姿です。

  「父よ、み名が崇められますように」という祈りは、私が、私のものでさえなく、イエス・キリストのものであるという告白を、喜びをもって告白することを含んでいます。あなたの「御名が崇められる」、そこに私のただ1つの慰めがありますと言うことです。主が教えて下さった「主の祈り」は、そのような根源的なものに向う祈りです。

  しかもこの祈りは、私だけでなく、全世界の人々によって、あなたの御名が崇められますようにという祈りです。そういう人が一人でも多く生まれますようにという祈りです。なぜなら、この祈りが人々の心に生まれる時、救いがその人たちに来、ただ1つの真実な慰めが来るからです。その慰めによって、生きる根拠が授けられ、困難をも担う原動力になるからです。

  テゼのブラザー・アロイスさんが、この夏も、テゼの丘に集まって来た世界の青年たちに呼び掛けていました。

  世界には今、あらゆる形の暴力が溢れ、人間の尊厳を卑しめるもので満ちています。また世界は刻々と目まぐるしく変化して、近未来のことさえ誰も分からず、漠然とした不安が世界に漂っています。社会に夢を抱いて巣立とうとしている学生たちが夢を持てず、自分の将来が見えない所に立っています。大人たちも似たり寄ったりです。いつどこで暴動が起こっても不思議でないのが今の世界です。

  メディアは格段に発達しました。コミュニケーションの手段は発展しましたが、ますます先行きが分からなくなり、将来のプランを立てることが難しくなっています。

  こうした世界の中で、信仰は何程の意味を持つのでしょうか。一体信仰に意味があるのでしょうか。だが、キリスト教信仰は決して安易な解決法を与えません。甘い言葉で誘おうとしたり、幻想を与えたりしません。

  しかし信仰において、私たち自身が、究極的に自分のものでなく、生きている時も死ぬ時も、キリストのものであることを深い所から信じる時、神へのその信頼は私たちに内なる粘り強さと不屈さを与えるのです。この粘り強さ、不屈さが大事です。

  誰もが自暴自棄にならざるを得ない状況の中に置かれても、生きる勇気と逞しさを与えるのです。「あなた方はこの世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。私は既にこの世に勝っている」とイエスが言われたように、イエスはすでに険しい山を登って、その目には山の向こう側の姿が見えているのです。だから、それに続く私たちには希望があるのです。生きていても死ぬ時も、自分はキリストのものであることを心の深い所で信じるから、峠の一番つらい坂道をイエスの後から望みをもってついて行くことが出来るのです。

  「父よ、み名が崇められますように」という祈りは、そういう意味も含んでいます。

                              (4)
  「み国が来ますように。」この祈りの中には、私たちが礼拝で祈る「主の祈り」の「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」の言葉も入っていると考えていいでしょう。確かに「み国が来ますように」という言葉には、この内容も含まれています。

  「み国」とは、大空や天のかなた、宇宙の果てを意味するのではありません。み国はもっと動的な意味合いをもっています。神の実効的な活き活きしたご支配です。神の実際的なご支配が地上に来ますようにという意味です。今、ここで、終末的に最後的に来させてくださいという意味にも取れるでしょう。そのような熱をもった祈りです。

  なぜなら、先程申し上げたように、地上ではみ心がなされず、邪悪が溢れ、将来を悲観させるものが厳然とあるからです。イエスは地上に悪がはびこるのをご覧になって、「あなた方はこの世では悩みがある、しかし勇気を出しなさい。私は既にこの世に勝っている」という言葉を語られたのです。

  「み国が来ますように。」「み国を来たらせたまえ。」これはキリスト教徒の永遠の祈りです。神の愛が地上で行われ、それが貫徹されるように。平和が支配しますように。また病気や障碍者が差別されない世界、政治的不正がなく、弾圧や偏見、人種や国籍や出身地、膚の色で差別されるのでなく、すべての人が公平に扱われる世界を来たらせて下さいという切なる祈りです。

  現在でも一部の富裕層が富を独占しなければ、地球上のすべての人間は飢えずに済みます。にも拘らず、富を貪る者、独占する者、富を手放そうとしない者たちがいるために、富は世界の隅々にまで行き渡らずにいます。「み国が来ますように」は、世界に変革を求める祈りです。

         (つづく)

                                        2012年7月22日


                                        板橋大山教会   上垣 勝



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