心の琴線に触れるところで聞く


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                                           先ず小さな一歩から (上)
                                           マタイ7章24-29節


                              (序)
  マタイ5章から7章の「山上の説教」(山上の垂訓)は、聖書の中でも特別な地位を占めています。これはまた、人類に大きな影響を与えて来ました。恐らく人類にこれほど影響を与えたものは少ないに違いありませんし、今後も、人類は繰り返しこれから学ぶに違いありません。

  しかし「山上の説教」は、その教えに学び、その教説に聞くというより、根本的にはイエスご自身に学ぶことであり、イエスと出会うことによってより深く学ぶことが出来ます。

  私はこの半世紀、聖書に触れて来ましたが、中には教えや教説は学び、拝借はするが、イエスご自身と出会ったり学んだりしない人が多くいました。中には聖書を自己流に料理して得意がっている人もありましたが、聖書によって造りかえられ、イエスと出会って思いがけない程の自分に根底的に変革されることがない。そのため聖書の一番大切な本質に幾らたっても迫れない人たちがありました。これは聖書から見ても残念だし、その人にとっても不幸だと思います。

                              (1)
  さて、山上の説教の締め括りの今日の個所で、イエス様は、「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行なう者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてもその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞くだけで行なわない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。…」と語られました。

  今年の九州の梅雨は並大抵なものではないようで、知人たちのことを心配しながら、ここに立っています。ある方は低い丘の上に家があって幸い浸水はないが、丘のふもとを通る道路は冠水して仕事に行こうにも、買い物に出ようにも動けない状態のようです。「雨が降り、川があふれ」という言葉を聞くだけでも、酷く心が痛みます。

  さて、「私のこれらの言葉を聞いて行なう者は」とありましたが、「これらの言葉」とは山上の説教で語られて来た言葉を指しています。「心の貧しい人々は幸いである」と、先ずイエスは語り始められました。また、「あなた方は地の塩である。…世の光である」とも語られました。また男性にとっては誰しもショックな言葉ですが、「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである」と、イエスは鋭く申されました。私たちの心を鋭く見抜く方がここにおられます。また、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とも言われました。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように」とか、「狭い門から入れ」ともおっしゃいました。

  そして今日の所に入って行くわけですが、イエスの今日の話しは、説明が不必要な程に明瞭です。建物を建てるには、誰しも堅固な地盤を選びます。現代なら、地中を深く掘って鉄筋を縦横に配し、大量のコンクリートを流してベタ基礎を作り、不安があるなら、太い杭をその下に何本も打ち込んで基礎を補充するでしょう。安全に、安心して生活するためです。暮らし易く安定した生活を築いて、家庭を持ち、子育てをし、人々と交流をしたり、信頼できる社会や文化を作るためでしょう。人生が祝福されるためです。

  反対に、地盤の弱い砂の上に家を建てる人は、たとえ家の外観は同じであっても、問題が起こった時に、いかにお粗末だったかが暴露されます。建てた当初は違いが分かりませんが、困難な状況、試練に直面した時に両者の相違が決定的になります。それは「愚かな人に似ている。その倒れ方がひどかった」とあるようなことになりかねません。

  イエスは、家と土台を人生のあり方に譬えておられるのは明らかです。建物が倒れても再建はあり得るでしょう。だが、人生が崩れ、倒壊してしまっては再建が困難です。

  2つの家の違いは、キリストのみ言葉に耳を傾ける人間の違いを表わしています。一方は、み言葉を聞いて実行に移したのに対して、他方は、同様にみ言葉を聞いたが、実行に移さなかったのです。キリストの言葉を聞いて行なうと、それが人生の堅固な土台となります。その土台は他のものでは代え難いものですが、たとえ隠れていても、キリストの言葉が土台になっていればいいのです。

  これはある人には勇気を与える言葉でしょう。これによって自信を得、更に前進するものになるでしょう。しかしまた、これは別の人には挑戦的な言葉でしょう。「私のこれらの言葉を聞いて行なう者は皆…」というのですが、イエスの言葉をまだ十分理解できない自分にとっては、行なうことについて躊躇を覚えるからです。その人はどうすればいいのでしょう。

  大事なのは、イエスの言葉を完全に理解することではありません。そうではなく、僅かでも理解したら、それを単純に直ぐ始めることです。どんな僅かな一歩でもいい。先ず小さな一歩を踏み出すことです。またすっかり忘れていたなら、気を落とさず、思い出した時点でまた始めるのです。これまでやっても失敗していたら、それも気にせず、また始めるのです。

  詩編に、「しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」(口語訳)とあります。あなたというのは主なる神です。主には赦しがある。ですから、失望する必要はありません。赦しを信じて始めるのです。

  ある人は書いています。「キリストは、私たちがあらゆることを完全に理解するとは思っていらっしゃらない。しかも、イエスに従うことにおいても、実に粗末である。」わが身を振り返って、本当にそうだと思います。お粗末なことばかりしています。ペトロもそうでした。パウロだってお粗末な所があります。多少抜けていても、それでいいのではないでしょうか。

  というのは、イエスはこの「山上の説教」の冒頭で、「心の貧しい人々は、幸いである」とおっしゃったからです。イエスは心の貧しい、お粗末な所がある私たちと出会うために、山上の説教を語り始めておられるのです。むろん、実行してほしいと望んでおられますが、一番重要なことは、私たちがイエスに出会い、イエスにおいて「幸いな人」になることです。神に祝福される人になることです。

  「私のこれらの言葉を聞いて行なう者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われましたが、イエスの言葉は規則と考えちゃあなりません。掟でもない。

  イエスの言葉は私たちの心の内側から強め、励ます力です。規則や命令と考えては、イエスの言葉は、私たちの内側から喜びとなって溢れて来るものになりません。福音ですから、喜びとなって溢れることが大事です。

  心の琴線に触れるところで聞くことが大事です。たとえ微かであっても、「そうだ、これが真理だ」と、直観的に、心から思えるものに押し出されて行くのです。それが私たちの魂の力になり、存在の力強い源になっていきます。

  琴線に触れるみ言葉を大事にしなければなりません。それが、神が誰かでなく、あなたに語りかけておられる言葉です。それが岩であり、土台となります。そして神が土台となって下さるのです。

        (つづく)

                                        2012年7月15日



                                        板橋大山教会   上垣 勝



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