日常の細部に永遠がある


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                                         あなた方は光の子です (下)
                                         Ⅰテサロニケ5章1-11節

                                         ・説教その他で引用される方は「コメント」を
                                          お残しください。


  (前回から続く)

  パウロはテサロニケのキリスト者たちに語ります。「しかし、兄弟たち、」キリストにあって生きている皆さん。「あなた方は暗闇の中にいるのではありません。」あなた方は、光の中へと導き入れられた人であり、暗闇や夜の人でなく、「あなた方はすべて光の子、昼の子」です。「夜にも暗闇にも属していません」と大胆に語りました。

  讃美歌502番4節を思い出します。「光のある間に歩きなさい。光のみ神が共にいます。」

  パウロは、あなた方にキリストの光が当たっている。神の救いの光が差している。あなた方は、神のみ手で守られている。光の神が共にいますと語るのです。

  世の中には、自分は呪われていると考える人があります。だが、どんなに呪われている、祟られているなどと悲観的に考える人であっても、キリストにあるなら、キリストが代わりに呪われて下さる。十字架についてご自分を陰府(よみ)につき落してもその人を救って下さる。「光のみ神が共にいます」とはそういうことです。光の神が共にいて下さるから、光の子、昼の子だと言われるのです。

  「あなた方はすべて光の子、昼の子だからです」という言葉で、洗礼によって新しく造られたことが考えられているかも知れません。私たちが、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けられるのは、光の子、昼の子とされるためです。洗礼は、「あなた方は夜にも、暗闇にも属していない」という、父と子と聖霊の神による宣告と言ってもいいでしょう。神の義の宣言を受けたことです。

  洗礼の恵みを過小評価してはなりません。そこに私たちと神の客観的な確かな接点があり、私たちの出発点があります。洗礼が重んじられる時には、キリストの恵みも重んじられ、罪の赦しも重んじられます。そして私たちの中に、キリストへの感謝と喜びが、平和が生まれます。

  「光の子、昼の子」と言っても、誇るためではありません。威張るためでなく、小さな光として人に光をもたらし、光を照らして仕えるためです。

  光の子は、光の大小によらず光を掲げるのです。それが6節の、「他の人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいよう」と言う勧めであり、8節の「私たちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」という言葉、また11節の「ですから、あなた方は、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」という言葉です。

  どういうことかというと、今パウロは、「主の日」、終末について述べている訳ですが、キリストの復活、再臨、私たちの甦りがあるから、光の子として生きよと勧めるのです。終末が近いから日常生活はどうでもいいとか、教会のことだけに励むべきだとかいうのでなく、終末の近さの中でも手ずから働き、落ち着いた生活をなし、自分の仕事に励みなさいと書くのです。

  終末が来るから、滅びないように、自分が救われるためにしゃにむに奔走せよ、世の生活に身を入れるな、ひたすら伝道に励め。そういうことを言いません。終末を説いて、ファナティックな熱狂的な信仰へと駆り立てるのではありません。主の日は私たちを社会に対してうわの空の生活へと導くのでなく、この世に責任を持つあり方、倫理を生み出すのです。

  「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植える。」マルティン・ルターの言葉ですが、これが、私たちキリスト者の生き方、キリスト教倫理です。

                              (3)
  「主の日」、キリストが再び来られる世の終わりは世界の終末を意味しますが、個々人にとっては、「主の日」はこの世を去る時です。息を引き取る時です。個人的にはそれが世の終わりです。では死を目の前にして、私たちはどう生きるのか。

  作家の柳田邦男さんはルターの言葉に注目します。癌にかかり、死を宣告され、その中で死を受けいれた人々が世を去るまで、一日一日をいかに生きるかということへの明確な答が、ルターのこの言葉にあるという意味のことを語っています。「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植える。」明日死を迎えるのであっても、落ち着いて、今日建設的な業をし、慎みをもって生きるということです。

  日常性を忠実のうちに生きるのです。たとえ明日、自分の終末が来ようと、もし体を動かせるなら食事の用意をする。子育てをする。食器を洗う。片づける。感謝して一日を迎え、神を賛美して一日を閉じる。こういう普段のわざ、そこに貴いものが潜んでいるのです。

  炊事場で米をとぐ。米をとぐ時、私たちは宇宙全体をとぐようにとぐと、道元が言っていますが、日常の細部に永遠が宿っているのです。聖書は、「一年は千年の如く、千年は一年の如し」と語ります。小さな一日の業に永遠の価値があるのです。

  宗教は得てして現実逃避に向かわせます。世俗を離れ、出家か、隠遁か、現実からの離別を勧めがちですが、しかしルターは、キリスト教は、むしろ新しい望みを抱いて現実に向かわせるのです。そこにおいて神の栄光を表わすのです。それは死が最後でなく、死の向こうに新しい世界があると考えるからです。あるいは、死は死として独立して在るのでなく、死もまたキリストの恵みのみ手に包まれて在ると考えるからです。生きるのもキリスト、死ぬのもキリストということです。キリストは生きている者と死んだ者との主であられるからです。

  イエスエルサレム入場をなさる直前、死の1週間前であったに拘わらず、先を急ぐ弟子たちを制して、エリコの入り口でこれまでして来られたのと同じようにりバルティマイという盲人を癒されました。またエリコの町に入ってから、取税人ザアカイの友になり彼の客となられました。「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植える。」それはイエス様の生きざまでもありました。主を信じる者たちには、主の日は突然襲う破滅の日でなく、むしろ喜びの日、希望の日、主とお会いできる日であるからです。

  「私たちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」

  「主の日」、また自分が死に臨む日が近づいても、あなた方は昼に属しています。闇に属していません。だから信仰から来る平和を内面に抱き、キリストが来て下さることへの希望で顔を輝かし、愛の手を他に差し伸べて生きなさい。救いの希望という兜をかぶり、神への信頼と人への寛容に生きなさい。パウロは、酷い苦しみの中に置かれていたテサロニケの人たちに希望を授けて、苦難の時の十字架の担い方を、品位ある生き方をここに教えようとしていると言っていいでしょう。

        (完)


                                       2012年7月8日




                                        板橋大山教会   上垣 勝



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