あなたに光が差しています


                               ・




                                         あなた方は光の子です (上)
                                         Ⅰテサロニケ5章1-11節


                              (序)
  久しぶりにテサロニケ書に戻って来ました。その間にテサロニケ、現在のギリシャ第2の町テサロニキで2000年程前の古代ローマの石畳が発掘されました。発掘されたのは全長70m、大理石で敷き詰められた道路です。大理石に子どもらが固いもので掘ったと思えるチェス・ゲームの盤が描かれていたそうです。いつの時代の子どもたちも遊びに熱中していたと想像できて、ほほえましい思いにさせられます。馬車の轍の後もついているそうです。また、その何mか下に、それより500年ほど前、古代ギリシャ時代の道もあることが分かりました。もしかしたらソクラテスプラトンも歩いた道かも知れません。すると、急に彼らが身近になります。人類の営みは営々と続いて、文明を築いて来たと考えさせられます。

                              (1)
少し復習しますと、パウロの伝道で西暦40年代末に生まれたテサロニケ教会は、当時のギリシャの異教世界の中で、相当激しい迫害を受け、酷い苦しみにあっていました。だが彼らは信仰に堅く立って、特に十字架の主イエス、苦難のイエスに倣う信仰に生きて、この地方全体のキリスト教徒の模範と目されるほど力強く活動しました。

  彼らの信仰の特徴の一つは、迫害の中で、やがて御子イエスが天から来られるのを待ち望む、待望の信仰、再臨の信仰となり、将来への望みを堅くして行ったようです。1章でその事が出ていました。

  これは今日の個所でいえば、「主の日」を待ち望む信仰、主が最後に勝利して下さる堅固な信仰となり、それが他の町々のキリスト教徒を励まし、勇気を与えるものになったようでした。

  これはむろん、パウロにとっても喜びでした。彼は2章で、彼らを、キリストの前で「誇るべき冠」とまで呼んでいます。また彼らの堅固な信仰が、その後ずっと変わらず維持され、彼らが「主にしっかりと結ばれている」ことを知ったパウロは、「喜びにあふれている」と記しました。

  信仰は継続し、真実な信仰となって貫かれることが大事です。一時的に熱心になっても、熱しやすく冷めやすいでは実を結びません。

  信仰はどこかの国のようなロケット発射ではありません。どんなに英雄的な華々しい前宣伝と発射があっても、ロケットが軌道に乗らなければ、打ち上げは失敗です。軌道に乗るとは、退屈で平凡な礼拝の日々もあるでしょうが、その行き慣れた道を歩き続け、兄弟姉妹と一緒に歩み続けるという日常性が大事です。

  人間の偉大さは、自分の小ささや人としての限界、一時は空中を飛びまわることがあっても、大地から離れては生活できないという事実を受け入れる時に、偉大さとなって現われます。

  パウロは、今はコリントにいますが、数百km離れたテサロニケ教会のために祈り続け、できれば顔を合わせて、彼らの「信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈って」いたと、3章に出ていました。

  人が信仰において育つために、背後でこのような絶え間ない執り成しの祈りが必要です。現代も同じです。祈りは愛と結びついています。信仰が育つには、その人を愛することが不可欠です。そして愛は自分の最も大事なものを与えることですから、当然背後からの忍耐強い祈りとなるでしょう。

  自分のために祈ってくれる人がある。真面目に執り成してくれている人がある。今、私は家族を考えていますが、言葉でなく、愛と祈りが家族をも信仰へと導きます。

  ギリシャ八百万の神多神教でした。その風潮の中で影響され、情欲に溺れて、教会の中で信仰の兄弟さえ騙したり、欺いたりということが起ったようです。そういう汚れた生き方をする人たちの中で、パウロが説いた福音は、人々を清潔にし品位ある生き方へと導いたのです。

  彼は4章で、「自分の仕事に励み、落ち着いた生活をし、手ずから働くように」と説きました。パウロは、テサロニケの人たちを高潔な生活へと導いたと言っても過言ではありません。

  この品位ある高潔な生活は、パウロによれば、何よりも私たちは死んだままでなく、無になり朽ち果てるのでもなく、やがて復活するということ。主が再び来られるという、キリスト再臨の信仰から来ます。主の再臨は喜ばしい知らせ、希望の福音でした。それは神による最後的な裁きの日であり、判決の時ですが、主を望み見て生きる人には勝利と喜びの時であったからです。

                              (2)
  ただ5章1節-3節で彼が述べるのは、「主の日」は盗人のように、用意なく突然襲うということ。それは、人々に破滅が襲う日と捉えています。「主の日」は最後の審判、神の裁きの日です。

  「しかし」と、彼はいいます。「しかし」、キリストにある者らにとっては、「主の日」は裁きの日でなく、盗人のように思い掛けない日に来ないと言います。終末の恵みの光が差しているからです。また、キリストにある者らには、この世は快楽の追求、飲めや歌えの宴楽の場でなく、慎み深く「主の日」に備えて生きる場であるということです。

  パウロが晩年に書いたロマ書13章で、「あなた方は今がどんな時であるかを知っています。あなた方が眠りから覚める時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入った頃よりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いと妬みを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」と書いています。

  アウグスティヌスを回心に導いた個所として有名です。パウロの信仰は初期から晩年まで、大きな変化はなく、むろん深まりましたが、中心は一貫して貫かれています。

         (つづく)

                                       2012年7月8日




                                        板橋大山教会   上垣 勝



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