祝祭の心でもてなし


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                                             二人の女 (下)
                                             ルカ10章38-42節

                                     ・お願い;説教その他で引用される方は
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                              (3)
  イエスはそれを聞かれて、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃったのです。これが今日の中心です。

  マルタは、マリアに対してだけでなく自分にも腹を立てている。だから気が立って、イライラし心乱している。

  多数の客、もてなし、妹のこと、家計のことも気になったかも知れません。あれやこれやで頭が一杯でパンクしそうです。それで、心が乱れて妹にもイエスにも当たってしまった。

  彼女は元々、自分を愛するように隣人を愛そうとして、集まった人たちを心からもてなそうとしたのでしょう。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、神を愛そうとして、熱心に励んだに違いありません。

  人一倍、イエスを熱く慕っていたからです。イエスの愛に心打たれ、教えに感銘し、深く感謝していたからでしょう。だから、この機会に報いたい。熱意が熱ければ熱いほどもてなしに力が入って、多くのことに思い煩う原因にもなってしまった。

  本質はイエスとの出会いの時です。イエスとの深い交わりの時であり、福音を聞く時にしたかった筈です。にも拘らず、それ以外のことに力が入り過ぎてしまった。

  思い出すのは、テゼのブラザ・ロジェさんの言葉です。「所有するものを分かち合うこと。それは、生活を単純素朴にし、あなたの家を開け放すことへと導いていきます。」マルタは開け放ったのです。そのことは良いことだった。「人々を迎え入れるために必要なものはほとんど何もありません。沢山のものを所有していることは、より広い交わりの助けとなるよりも、むしろ妨げとなるのです。単純素朴な食卓、そこには祝祭の心がゆき渡ります。」

  本当にそうだと思います。人を迎え入れるために、もてなすために、祝祭の心、シンプルだが平和と喜びの心が大事だというのです。余り多くの物質のもてなしは喜びを殺いでしまうというのです。もてなし物の方に話題の中心がいって、相手の「心」に聞いたり、話したりするのが少なくなるからでしょう。折角のもてなしが単なるお付き合いになります。箴言に、「乾いたパンの一片しかなくとも、平安があれば、生贄(いけにえ)の肉で家を満たして争うより良い」とあるのは、このことでしょう。乾いたパンの一片を互いに分かち合って、心を分かち合い、平和と喜びをもっておしゃべりし、祈り合えたら最高です。それが最高のもてなしです。

  マルタはイエスへの熱心という善い所があるのですが、過剰になり過ぎて、余りに多くのことで心を乱してしまった。マリアのようにポカンとすることがない。余裕がなく、気が立っている。イエスはその事を言っておられるのでしょう。

  マリアは黙って主の言葉に聞き入っていた。その沈黙の時は、彼女が内面深くから創り変えられる時であったでしょう。魂に慰めを受け、内側から強められる時であった筈です。彼女はみ言葉に聞き、福音に励まされ、自分を凝視し、やがて次に新しい一歩を踏み出す準備をしているのです。み言葉に集中するなら、必ずやがて深いところから新しい一歩が始まるでしょう。

  心をシンプルに単純にする。すると澄んで来るのです。自分がすべきことも、している意味も重要さも客観化できるのです。

  邪念を取れということです。あの人が、この人が。私一人が頑張っているといった、邪念を払拭せよ。そうでないと、イエスにさえ、「何とも思いになりませんか。あなたからも言ってやって下さい」と当たるような人間になるということでしょう。

  むろん私たちは、あれもこれもしなければならないという多忙な所に立たされることがあります。その時は、そこでベストを尽くすだけです。横の人を盗み見ちゃあならない。横を見て、マリアに言って下さいと不平をぶつけるのでなく、自分に必要な唯一つのことをなしていくのです。イエスは私たちにも、「必要なことはただ一つだけである」と言われます。心乱さず、穏やかに。いや、心乱れます。穏やかになれません。だが、「神、我らと共にいます」という信仰。私のここにも、神が共におられるという信頼に繰り返して立ち戻るのです。

  今ある異常な状況も、神の目には異常でなく、神のみ手の中に守られてあることを信頼し、信じ抜くのです。

                              (4)
  イエスは、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われました。誰しも人間にとって、「必要なものはただ一つだけである」のではないでしょうか。皆さんもよくご存知の星野富弘さんの詩を味わいましょう。

  「いつだったか、
   君たちが空を飛んで行くのを見たよ。」
  タンポポの花と空を飛ぶ綿毛の絵が描かれています。星野さんが口に絵筆をくわえて描いた絵です。

  「いつだったか、
   君たちが空を飛んで行くのを見たよ。
   風に吹かれて、
   ただ一つのものを持って、」
  綿毛は多くを持ちません。ただ一つの種を持って遠くへ飛んでいきます。

  「ただ一つのものを持って、
   旅する姿が嬉しくてならなかったよ。
   人間だって、どうしても必要なものはただ一つ。私も、
   余分なものを捨てれば、
   空が飛べるような気がしたよ。」

  私たちは余分なものをあまりにも多く持っていないでしょうか。あまり余分なものを持ち、余分なものに執着しているので飛べないのではないでしょうか。イエスは、心をシンプルに、単純にしなさいと言われます。シンプルにすると澄んで来るものがあります。イエスは、多くのことに思い煩わず、余分なものを捨て、ただ一つ、肝心なものだけを持って生きなさいと言われます。

  そうです。心をシンプルにするとは、マタイ福音書6章でイエスが言われたように、「明日のことを思い悩むな。明日のことは明日自ら思い悩む。先ず、神の国と神の義を求めなさい」ということです。邪念を捨て、この肝心要のものだけを持てば、誰しも空を飛べる。空を飛べるというのは隠喩です。星野さんが頚椎損傷で首から下が麻痺したままですが、神に生かされ、結婚までして、まるで空を飛ぶかのように神を感謝して身軽に生きておられる。そのようなことが人間には可能であるということです。

  ところでマタイ14章に、ペトロは風を見て恐ろしくなり、沈みそうになったと書かれています。イエスの方でなく、強い風に気づいてそれを見たのです。風を気にしたのです。水の上を渡って行くというのは不可能です。そんなことは誰だってできません。ところがイエスを見ている限り、沈まないのです。決して沈まない。だが風を見て不安になり、恐れ、気をもんでしまうと沈むのです。

  どうしても解決できない問題があるかも知れません。押しても、引いても、体当たりしても、拝んでも、どうにもできない問題を持っているかも知れません。いや、皆、何かその類いのものを持って生活しています。その時、ただイエスだけを見て進むのです。すると、堅い壁のようなものまでいつの間にかスーと通り抜け、いつの間にか向こうへ抜け出ているのです。

  しかし一旦歩けても、風を見ればまた沈みそうになります。

  ある人がこんな意味のことを書いていました。「私たちが勇気を与えられる為に、ただ一つのものに向うことが必要です。神の招きに応えて、自分を差し出すためにそれが必要です。長く辛いことが続くかも知れません。しかし、それを投げ出さず、受け身にならず、逆にそれを建設的に用いて行くことが可能になるために、この『ただ一つだけ』がどうしても必要なのです。」(J.バニエ)

      (完)

                                        2012年7月1日



                                        板橋大山教会   上垣 勝



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