良い子である自分に敗れると楽になる


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                                            あなたの隣人とは (中)
                                            ルカ10章25-37節

                                         ・説教その他で引用される方は「コメント」を
                                          お残しください。


  (前回からの続き)
                              (1)
  さて、今日の個所を今回は2回に分けてお話しさせて頂こうと思いますので、来週にサマリア人の譬えを取り上げます。で、今日はちょっと気楽な感じでお話ししようと思います。

  2回に分けるのは、実はこの話は2つの出来事からなっているからでもあります。1つは、25節から29節までのイエスと律法学者の問答です。この問答は、類似した問答がマタイ22章34節以下やマルコ福音書に出て来ます。それらにはサマリア人の譬えは出てこないのですが、問答はそれらにも出ているのです。

  さて直前の個所で学びましたが、イエス様は72人の弟子たちの報告を聞いて、喜びの祈りをされました。「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子のような者にお示しになりました」と祈って、神に、「御名をほめたたえます」と言って感謝されました。ところが今、幼子とは正反対のような、「律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と、議論を吹っ掛けて来たというのが今日の場面です。

  イエスの話を聞こうと何人もが取り囲んで座っていました。するとこの専門家、知者賢者の典型のような学者が立ち上がって質問したのです。「立ち上がって」という姿に、彼の意気込みが感じられます。今こそ、イエスをやりこめようという強い意志です。「イエスを試そうとして」立ち上がったとあります。

  「先生」と呼び掛けていますから、ある種の丁寧さがあります。しかし尊敬を装っているものの、動機は「試そう」ということです。面従腹背と言いますが、口は穏やかだが腹は違う。そう言うことは男たちの仕事の世界にはざらにあります。

  彼の不純な動機によって、イエスはおとしめられようとしていたのです。

  しかし、イエスは落ち着いて、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」とお聞きになると、彼は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。』とあります」と答えました。そこでイエスは、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃったというのです。

  彼は、「どう読んでいるか」という質問には答えず、「律法には何と書いてあるか」だけに答えています。「あなたはそれをどう読んでいるか。」これが人間にとって一番重要なことです。その事には少しも触れずに、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』とあります」という知的な模範解答だけをします。彼は立て板に水の如く、滔々と答えたに違いありません。

  彼の答えは、ユダヤ人が日常的に唱えている言葉でした。彼らは朝起きると先ずこれを唱えたようです。前半は申命記6章5節の言葉であり、後半はレビ記19章18節の言葉です。旧約聖書のおびただしい数に達する律法は、神への愛と隣人愛、この2つの言葉に尽きるということです。

  ただ彼の答えは、今申しましたように、「どう読んでいるか」という問いに一切答えていません。「どう読んでいるか」はすっかり抜け落ちている。

  これは、彼に都合の悪い問いだったので避けたのでしょう。だが自分にとって都合の悪い問いこそ、自分の殻が打ち破られる一番大事な問いであるかも知れません。彼は、自分は「どう読んでいるか」の問いは封印して、知的な、知識的な問題だけに答えるわけですが、これは彼のこれまでの生き方でもあったに違いありません。

  それに対してイエスは、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば永遠の命が得られる」とおっしゃったのです。イエスは素晴らしい応答をしておられます。先ず彼を肯定して、しっかり受け止めておられる。ご自分の言いたいことだけを言うのでないのです。しっかり相手を受け留めてから、次に「それを実行しなさい。そうすれば永遠の命が得られる」と、相手に言うべきことを言っていらっしゃるのです。

  彼は知的な答えとして正解を出しました。イエスは、それは正解だとおっしゃいます。しかしそれと共に、「その正解を生きてみなさい」とおっしゃるのです。

  私たちは、一度自分に敗れなければなりません。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」これは全く正しい。しかし自分に正直であれば、神を全身全霊で愛しても、具体的な身近な隣人を愛しえない自分。破れた自分に気づくものです。その破れた自分に正直でなければなりません。

  破れた自分。その破れ口からキリストの恵みが入って来るのです。その傷口が大事です。ところが破れずに、自分の正しさだけを主張したり、破れに蓋(ふた)をしていると恵みも入って来ません。キルケゴールが指摘する「強気の傲慢という罪」はそこにあります。

  正解を出す自分。良い子である自分に、一度すっかり砕かれなければなりません。自分に行き詰って初めて、そこから新しい歩みが始まります。信仰生活にとって、行き詰りや躓きは千金に値します。十字架があって復活がある。そして希望を下さる聖霊が送られる。

  先日の愛餐会で、Aさんが「癌になったおかげで、神様を深く知ることができました」と、簡単におっしゃいましたが、それはとてもとても重い言葉でした。致命的な癌になり、一切を神に委ねた。その時に恵みが入って来たのです。

  しかしこの専門家は、聖書を頭の中の問題として扱っているだけで、それを生きて見ないから、自分は破れることがないのです。いや、破れたこともあるでしょうが、破れるからその後は挑戦しないのです。自分が可愛いからです。ですから彼は、「自分を正当化するために、『では私の隣人とは誰ですか』」と問うのです。

  自己愛というのでしょうか。彼は自分を握って、誰にも自分を明け渡さない。神にも自分の魂を渡さない。ですから自分の現実を直視できないのです。今日、こういう人たちが非常に多くいます。知識はあっても実に人間として未熟です。しかし、そういう人であっても、求めるなら必ず新しい自分に創り変えられます。「求めよ。さらば与えられん」とある通りです。

       (つづく)


                                        2012年6月17日




                                        板橋大山教会   上垣 勝



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