死はゴールでなく関所


                 「麩まんじゅう」をほおばりながらスカイツリーを見るのもよし。
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                                             死者たちの復活 (下)
                                             Ⅰテサロニケ4章15-18節


                              (3)
  終末論というのは、終わりの日、終末を論じるキリスト教の学問です。終末とは時間の終わりという意味だけでなく、最後究極的な事柄のことです。最後究極的な事柄とは平たく言えば神のことであり、キリストのことです。ですから終末論は神とキリストについて論じることでもあります。

  それで、色んな終末論の考えがあります。その一つは、「今、ここに、既に終末が来ている」という考えです。これはコリント後書6章にある、「見よ、今や、恵みの時、今こそ、救いの日」という考えに近いでしょう。終末とは今言いましたように、神のことキリストのことですから、「今、ここに、既に終末が来ている」という考えは、終末はずっと先の方にだけあるのでなく、今、既に私たちは終末的なお方であるキリストに出会って生きている。今、ここで、終末を生きている。「見よ、今や、恵みの時、今こそ、救いの日」だと考えるのです。

  これは、現在という今が永遠につながっているということです。そうです。よそ見をしなければ、今、永遠なる神、キリストとの関係の中で私たちは生きることができるのです。

  皆さんもご存知の日野原重明さんは去年100歳になられました。今も毎日のように、昨日は大分、今日は神奈川というふうに講演などに飛びまわっておられます。20年程前に、以前の教会の百周年にお呼びしてお話しをして頂きましたら、大会場はあふれて入り切れませんでした。

  10歳の時に腎臓炎になって1年間、スポーツを止められ不自由であったそうです。だからピアノを習ったので、今もピアノを楽しむことができるとおっしゃっています。20代に結核になった。1年休学した。絶対安静であったので、病床にある人たちの苦痛、悩みがよく分かるようになりました。万事はあい働いて益に変えられる。信仰に立ってそう語っておられます。

  ご存知のように「新老人の会」というのを主宰して、「今までやったことのないことをやろう」と呼びかけておられます。80歳を過ぎてパソコンを勉強する人、i-padを始める人、ご自身は2年前から俳句を始められたそうです。そして、「百歳はゴールでなく、関所だよ」と言っておられるのです。

  日野原さんは日常の一般的な言葉に翻訳して語っておられますが、そこで言っておられるのは、「今、ここで生きる」、今、ここで、終末的な方と出会って今を生きるということです。

  パウロの生き方、そしてその原点、出発点になったイエスの生き方。それは復活があるからそういう生き方が生まれた訳です。それは死をゴールと見ない。死も1つの関所だよという生き方です。死の向こうに希望の世界があるからです。

  パウロが今日の個所で牧会的な配慮をもって語ろうとしたのは、そのような希望のおとずれであり、希望の世界のことであったのです。

       (完)

                                        2012年6月10日



                                        板橋大山教会   上垣 勝



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