肩に力が入りすぎたパウロ


スカイツリーは中に入っても詰まらない。下町のまんじゅうなどほおばりながら、外から見るのがベストです。
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                                             死者たちの復活 (上)
                                             Ⅰテサロニケ4章15-18節


                              (1)
  今日の個所は、いささか時代がかった中世の絵画を思い出させるような個所です。16節には「合図の号令がかかり」とか、「大天使の声が聞こえ」、「神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から下って来られます」という絵画的な表現が沢山あって、実際この個所を題材にして、ラファエロとかティツィアーノと言った人たちが空中で主に会う写実的な絵を描いています。

  この個所からメッセージを与えられようというのは困難を覚えますが、パウロが語ろうとした根本的なものから目を逸らさないでお話をしようと思います。ここでは枝葉のことでなく、その中核をなすものが重要です。

  さて、今日の個所はその前の13節から18節の終わりまで続く、「既に眠りについた人たちは、一体どうなるのか」という問いの中で語られています。「眠りについた人たち」というのは、信仰をもって既に死んだ人たちのことです。彼らは今後も死んだままなのか、復活するのか、いつ復活するのか、また私たちは一体どうなるのかという問いです。

  ですから13節から今日の所までに、「眠りについた人たち」のという言葉が何度も出て来ますし、「キリストに結ばれて死んだ人たち」という表現もあります。
                
  これらの個所でパウロが基本的に語るのは、14節にある、「イエスは死んで復活された」こと、そして「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出して下さる」ということです。イエスの復活とイエスを信じる者たちの復活です。枝葉末節のことはともかくも、この根本的な中核になる信仰はいささかも変わりません。

  しかし15節から書かれる表現は、今申しましたように、2千年前の古代の宗教観に基づいたもので、当時の神話的な世界観で絵画的に語っている訳です。

  以前に申しましたが、このテサロニケ第1の手紙はパウロが西暦50年夏頃に書いた、新約聖書中もっとも古い手紙です。いや、4つの福音書よりも古く書かれたものです。主の日、再臨についても彼は初めて書いたものかも知れません。そのためか肩に力が入り過ぎた感を免れません。

  どういうことかと言いますと、この手紙が書かれた頃は、終末は直ちに来ると信じられていました。だが、終末が中々来ない訳で、終末の遅延という問題が起こったのです。そのために、終末への心備えが変化します。終末の考えが変わって行ったのです。やがて更に50年程後になると、第2ペテロにあるように、終末の遅延に触れて、「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです」と語られるようになります。

  しかしテサロニケ第1の手紙のパウロは、未だすぐに終末が来ると考えていましたから、古代の神話的な表現で書いてしまったと思われます。パウロとて、神でもキリストでもありません。人間的な限界を持ちます。キリストの再臨の日はどのように起こるかを知っていた訳ではないでしょう。ただ、ここでは質問者に対して、その時の彼の考えを素直に述べた訳です。

  彼は16節で、「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます」と述べ、「すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」と語りました。

  迫害の中で信仰を貫き、無残な最期を遂げた人たちもいた訳で、既に眠りについたこのような人たちはどうなるのかと心配する声を聞いていたので、彼はそれに答えたのでしょう。彼らこそ、まず最初に復活する。生きている私たちより先に甦るのであって、彼らが後に取り残されることはない。心配いらないと、彼は、言わば牧会的な配慮からこれを語っているように見えます。

  キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず復活し、「それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」私たちと復活した死者たちが合流して、空中で主と会うために、雲に包まれて引き上げられるのですと語る訳です。

  ラファエロなどの絵に、生き返った者たちが空中に高く高く上がって行く姿がよく出て来ます。素足のきれいな足や足の裏まで克明に描いて、空中を舞ってどんどん昇って行く明るい絵です。

  先程これは牧会的な配慮から彼が書いたと申しましたが、18節で彼は、「ですから、今述べた言葉によって、励まし合いなさい」と、キリスト者同士が励まし合い、相互に支え合うように、相互牧会を勧めているところからも、彼らへの配慮で書いたと言えるでしょう。

       (つづく)

                                        2012年6月10日



                                        板橋大山教会   上垣 勝



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