東北のキリシタン殉教


                             川底のツリー
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                                         イエスの喜びの祈り (下)
                                         ルカ10章21-24節


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  阪神淡路大震災の時は、救援に駆けつけました。しかし今は年齢もかさみ、救援に行って反対にお邪魔になるとも限らないのでまだ私は現地に行っていません。しかし今の体がよくなれば、皆が行かない時に行かせて頂こうかと考えています。

  被災地の人たちは仮設住宅に入って1年以上になる方もあります。雨露をしのぐ場所が与えられているものの、仮設住宅は大抵、町から離れた不便な場所にあって、しかも殆どがご高齢の方が多いので、買い物に行こうにも遠くて大変な様子です。現地を知らずに想像だけで申し訳ありません。

  その人たちを支援するために、キリスト教の団体もあちこちで救援基地を作って活動しています。石巻近くの南三陸町にも救援基地があります。その基地の近くに森で覆われた洞窟があるそうです。今私は基地のことでなく、この洞窟のことをお話ししようとしています。

  それは、4百年ほど前、17世紀の徳川時代の初めにキリスト教徒たちが集まって、後に殉教することになる一人の司祭から聖餐をいただいた洞窟だそうです。その洞窟でミサがとり行われたのです。現在は、イエスを信じて殉教した300人を記念して記念碑が建立されているようです。

  何日間かのボランティアのために、最近この南三陸町を訪ねたある外国人(テゼのブラザー)が、こんなことを書いていました。「犠牲者となったこのキリスト教徒たちと昨年3月11日の犠牲者たちとは、4世紀の長い年月を隔てていますが、彼らの勇気と尊厳は変わりません。300段の階段の上にチャペルがあります。私たちは階段を登りながら十字架の道を辿りました。澄んだ鐘の音が、この巡礼の地を取り囲む森一帯に響き渡りました。キリストの愛を証しするために命を失ったこれらの男や女たちの模範に倣うように、まるで私たちを招いているような気がしました。」

  1612年慶長17年、2代将軍秀忠によって江戸の迫害が始まり、江戸の各地で殺されますが、伊達藩に逃げて信仰を持ち続けたキリシタンの多くありました。だが、そこにも幕府の厳しいキリスト教禁教令が迫って、ある者たちは北海道まで逃れますが、東北の金山や銀山に隠れ住んで信仰を貫いた者たちもいました。だが東北のこれらの人たちは1639年から3カ年にわたって捕えられ、磔、打ち首、鉄砲での狙い撃ちなどで、300余名が殉教したと伝えられています。

  しかし、彼らはその殉教の時にも、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」という、今日のイエスの言葉に励まされたに違いありません。また、「あなた方の髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなた方は命を勝ち取りなさい」というお言葉にも支えられたでしょう。更に、「あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」という言葉によっても、慰められたに違いありません。

  人間とは何者でしょうか。人々が作る社会とはいったい何でしょうか。それぞれの時代、時代に生きる者たちは、そして私たちは、何を喜び、何を希望し、何を恐れて生きているのでしょう。だが、必ずその時代も人も思想も移りゆき、無くなり、少し時間が経つと霧のように雲散霧消して、どこを探しても、秀吉だろうが、家康だろうが、秀忠だろうがいません。

  しかし、「ただ神の言葉のみ堅く立つ。」ただ神の言葉のみ、永遠に歴史と時間を越えて堅く立っています。


         (完)

                                        2012年6月3日



                                        板橋大山教会   上垣 勝



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