知識人に隠されたもの


                             樹下のツリー
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                                         イエスの喜びの祈り (中)
                                         ルカ10章21-24節


                              (2)
  さて、イエスは父なる神に感謝した後、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」と祈られたのです。

  「これらのこと」とは、先週の18節から20節までの72人に語られたことです。「あなた方に害を加えるものは何一つない」こと、悪霊が服従するからと言って喜ぶのでなく、「あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」などということです。

  先週お話ししましたが、「あなた方の名が天に書き記されている」ということは、地上の何ものもあなたがたの本質を傷つけたり、害を加え、損なったりすることはできないということです。あなた方の本質、その魂の神髄、その命の中心は神によって守られている。それをしっかりと覚えることが、弟子の使命であり、責務であるということであり、そこに目を留める時に絶えず湧き出る力を授けられ、弟子の使命と責務を喜びをもって果たすことが出来る。その事こそ喜びなさい。即ちあなたがたは神に愛されているということです。神によって平和と希望が保障され、確保されているということです。

  この世の「知恵ある者や賢い者」とは、律法学者やファリサイ人たち、長老や祭司長たちのような世の知者、賢者の類いを指しています。知識人は、えてして自分の才能を誇ります。救いも自分の業による功績にしやすい。その最たるものが、業による救いを語る律法主義です。

  しかし、神はそのような者たちに神の素晴らしい奥義を「隠して、幼子のような者にお示しに」なられるのです。当時のユダヤ教社会では、「幼子」は何ら積極的な意味を持ちませんでした。知恵のない愚者として軽んじられました。現在でも、自分の子ども時代を忘れて、子どもに顔を顰める人たちがあります。

  イエスは世の考えを逆転されたのです。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。父よ、これは御心に適うことでした。」何という強烈なプロテストでしょう。

  「幼子のような者」とは、単純素朴にキリストを信じ、私心なく喜んで従う人たちを指しています。彼らはこの世的には吹けば飛ぶ幼子のような小さな者たちです。幼子は複雑にあれこれ考えません。だが、時に彼らは命の本質に触れるキラッと光る言葉を発ったり、尋ねたりします。「幼子のような者」とは、業績や業の上に自分を築かず、ひたすら神を仰いで神を愛する者たち、イエスの言葉と存在を単純素朴に信じる者たちです。

  イエスはこのような者たちに、信仰の奥義の一つを証しえたことを、他の何よりも喜ばれたのです。

  聖書には幼子や世の低い者を大切にする視点が至る所にあります。例えば第Ⅰコリント1章は、「兄弟たち、あなた方が召された時のことを思い起こして見なさい。人間的に見て、知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や家柄の良い者が多かったわけでもありません。ところが、神は、知恵ある者に恥をかかせるために、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるために、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは誰一人、神の前で、誇ることが出来ないようにするためでした」と語っています。

  イエスは学者や知者、賢者でなく、幼子のような無学な者を選んで、神の真理、奥義を示すことが出来たことを感謝し、喜ばれましたが、ただ間違ってはならないのは、「幼子や無学な者」に価値があるからではありません。「幼子や無学な者」がまるで自分の方に価値があるからだと、誇ったり、高慢になったりしていいというわけではありません。そうではなく、「それは誰一人、神の前で、誇ることが出来ないようにするため」に、「無学な者を敢えて」選ばれたのです。敢えてと申しましたが、前の口語訳は「敢えて選ばれた」とはっきり書いています。

  知者や学者だけではありませんが、やはり賢いと自負する人間は、謙虚さを失って、自分は分かっている、知っている、もうすっかり学んだと知ったかぶりをしがちです。また賢い人間は、その才能を自分の栄光のために使い、自分の価値が証明されるためとか、他の人を牛耳るために使いがちです。だからうぬぼれ易い。

  だから、「知恵ある者や賢い者には隠して」とあるように、神は意識的に彼らに隠されるのです。救いや信仰の真理は、神に従順になり、砕かれ、幼子のようにならなければ分からないし、神の国に入ることができないからです。だから敢えて神は彼らに奥義を隠されるのです。砕かれるということは極めて大切です。

  パウロが先程のコリント前書で書いているように、実際に、2千年前のイスラエルローマ帝国においてキリストに従った人の多くは、決して偉い人間でも有力者でもなく、無名の低い人たちであり、アム・ハ・アレツ、地の民と呼ばれた人たちでした。だが彼らが神の器として用いられました。

  知者や賢者に隠されるもう一つの理由は、彼らは想像力を逞しく働かせて神を自分の知恵で捉えようとするからです。だが知恵で捉えたその神は彼らが想像する神、理想とする神であって、聖書が語るまことの神ではありません。理想は神ではありません。自分が考える、好ましい理想像を神にしているだけです。

  22節で、「父の他に、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう者であるかを知る者は、子の他になく、また子が示そうと思う者の他には、誰もいません」とイエスが言われるのはそのことです。神は、神ご自身によって啓示され、示されなければ、誰も分かりません。神はイエスを通してご自身を啓示し、示されたとイエスはおっしゃるのです。ですから、イエスに聞き、イエスに触れる時に、神とはどういう方か本当の意味で分かって来るのです。

  イエスが語ろうとしておられることを一歩進めて言いますと、父なる神の他に、子がなぜ父なる神のもとから遣わされたのかを知る者はないこと。子は父との関係でどのような者であり、子がなぜ苦しみを受け、捨てられ、十字架に付けられなければならないのかを知るのは、父だけであること。また、子が世に来なければならなかった理由、必然性を知るのは、父なる神以外にないということです。

  2千年に渡るキリスト教思想の中で最も重要なテーマは、「クール・デウス・ホモ」ということでした。これは、「何ゆえに神は人となりたもうたか」というラテン語です。なぜ神は人になる必要があったのか。イエスが人であり同時に神である理由、また人間の救済の理由とその意味。父なる神以外に真に理由を知る方はないと言っていいでしょう。しかし、神とキリストご自身、そして聖書の中にその真理が啓示され示されたのです。

  そのように深く秘められた永遠の真理であるにもかかわらず、神が「幼子のような者」に表わして下さったことが感謝であり、溢れる喜びであり、大きな歓喜なのです。イエスが、「聖霊によって喜びにあふれ」とあるのは、このような意味をもっています。


         (つづく)

                                        2012年6月3日



                                        板橋大山教会   上垣 勝



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