先ず行けと背中を押されて


                           ソーヌ川の白鳥たち
                               ・



                                        主があなたを遣わされる (下)
                                        ルカ10章1-12節


                              (4)
  イエスは彼らに言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。私があなたがたを遣わす。それは狼の群れに、小羊を送り込むようなものだ。」

  マタイ福音書10章にもある言葉です。いずれの福音書にも共通しているのは、あなたがたを遣わすのは「私である」ということです。「私が遣わす」ということが特に強調されています。

  神の子イエスの権威があなたがたの上にあるということです。あなたがたは、主の権威に取り巻かれ守られているという宣言です。私が「行け」というのだから、必ずあなたを守る、あなたを持ち運ぶとの確約でもあります。決してあなたを捨てないとのイエスの決意です。イエスの約束のもとに彼らは遣わされたのです。

  そして、「財布も袋も履き物も持って行くな。」最近、ご婦人方は大抵リュックに地震の備えをして外出しておられます。妻は直ぐそこに買い物に行くにも、買って来るものより重いものを入れて出掛けます。イエス様は、地震の備えは何にも言っておられません。現代社会というのは、一方で便利なことが一杯ありますが、他方で社会が複雑になり気苦労が増えて大変です。人が心配するようなことを、好んで報道しているのでないかと思えることも多くあります。

  イエスは、「財布も袋も履き物も持って行くな」とおっしゃった。財布も袋も履き物も長には必需品です。しかし、本質的ではない。一番大事なのは、福音を持ち運んでいくことであり、そのメッセージです。その事に集中しないで、周辺部分にだけ心が行っている。

  伝道の旅だけでなく、人生を行く旅においてもそうではないでしょうか。私たちはメッセージを持ってこの世へと出て行っているか。チマチマした周辺部分に心を使って、本質部分を生き抜こうとしているか。

  中々勉強に取り掛からない子がいます。いや、自分がそうでした。机の前に座るとまず鉛筆を削ってましたね。それが済むと耳が痒くなる。それから大抵、爪ですね。若い時に会社で貰った爪切りを、ほぼ50年間今も使っています。1千時間無事故達成記念として貰いました。でも、爪切りや耳かきも本質的ではありません。

  創世記に、「主の山に備えあり」とあります。アドナイ・エレ。アブラハムが、モリヤの山で一人息子イサクを燔祭に献げなさいと命じられ、山頂に行って献げようとしますが、神を疑わない彼の信仰をご覧になった神が、イサクの代わりに一匹の雄羊をお備えになったのです。「主の山に備えあり」。神を信じて歩む生活には、必ず備えがある。

  こまごまとしたものを考え過ぎるなということです。主に従って、大らかに先ず行け。すると備えられている。先々のことを気に病み過ぎると躊躇します。大胆さが失われます。気持がしぼんで来る。「行け」、「私は遣わす」とおっしゃる主のみ言葉に、自分を忘れて従うのです。

  今年度を迎えるに当たって、教会の周りに伝道のチラシを配ることを示されました。しかし、4月の総会資料にその事を書き、役員の方にそういうことを提起するのにかなり躊躇がありました。何度も考え直しました。一般の人たちが終わりまで読んでくれる、そんな文書を作れるだろうかという心配。そして年に何回か、何千部か印刷して配り切るだろうかという不安です。

  しかし、イエスが、先ず行けと、背後から押されている気がしたのです。チャレンジしなさい。イエスを証しするために、先ず周辺に配って見よ。でも、教会周辺に配るということは、自分の足元が見られることです。生き方が見られます。それはまずいという思いもあります。でも、先ず配って、それから考えよ、そう言われている気がしました。

  「途中で誰にも挨拶するな」とあります。長くこの意味が分かりませんでしたが、今回、これはイエス様が72人をそれぞれの町や村に遣わされる訳で、そこへ行くまでに余り時間をかけるなと、目的地にさっさと先ず行けとの意味だろうと思いました。

  そして行けば、先ず「この家に平和があるように」と祈りなさいと命じられました。先ず、神の平和がその家に来るように祈り、神の国のご支配があり、神の祝福の御手が、その家に置かれることを祈り宣言する。それが弟子たちの基本的・本質的な姿勢であるということです。

  それを受ける用意が出来ている家。その家に平和の子がいるなら平和がそこに留まる。だが、そうでない場合は受け取りはしないでしょう。それは相手の自由です。強要できません。任せざるを得ません。

  しかし、主が行けと語って背中を押して遣わされる。主が、あなたを遣わされるのです。この主の派遣を信頼し、それに賭けることを弟子たちはして行ったし、私たちもそれをすべきでないかと思います。

  教会周辺に配ろうと思う伝道のチラシを先ず皆さんにお読みいただくために作成しました。後で報告の時にお配りいたします。

            (完)

                                        2012年5月20日


                                        板橋大山教会   上垣 勝



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