教会が同好会でないわけ


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                                        主があなたを遣わされる (上)
                                        ルカ10章1-12節

                              (1)
  イエス様は、「私はあなたがたを遣わす」と言われました。

  エクレアっていうと、皆さんは何を思い出しますか。洋菓子店で売っている細長いチョコがたっぷり乗ったパン・ケーキでしょ。甘く美味しい、子どもたちの好物の一つです。子どもだけじゃなく、私自身もです。そのエクレアと似ていますが、エクレシアをいう言葉があります。これは教会を指すギリシャ語で、「呼び集められた者」という意味です。エクレアはお菓子で有名ですが、エクレシアは2千年間、ずっと教会を指して来た言葉です。

  キリスト教会は、その誕生の時から、神に呼ばれ、十字架の恵み、復活の喜び、ナザレのイエスの愛に深く与って、集められて来た群れでした。

  キリストによって呼ばれ集められたのでなく、キリストに耳傾けず、自分たちだけで勝手に集まった群れは、教会と呼びません。それは私的な自主活動団体であったり、同好会であったり、趣味の会です。ですから教会の本質を考えるなら、私たちは、教会という「組織」や「制度」が呼びかけて集まっているのでもないのです。組織でなく、あくまでもキリストが呼び集め、その声に応えて集まっているのです。

  同好会なら、これ程バラバラな人は集まりません。こんなに色んな人がいると運営が大変です。しかしキリストが集められたから、キリストの信仰共同体は、これ程バラエティに富んだ者たちが豊かに集まっているのです。年齢的にも教会学校に来ている3歳の子から、ここにいらっしゃる89歳の方まで。この多様性が教会の特徴であり、長所です。これは、ヨハネ福音書13章でイエスがおっしゃっている、「互いに愛し合うならば、それによってあなた方がわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」ということを背景にしています。神が集められたから豊かなバラエティがあるのです。神が呼ばれたから、性格や趣味、色んな気質を越えて1つになり、不可能が可能になっている。

  そのようにキリストによって集められた教会は、次に、キリストによって散らされます。この世へと派遣されます。それが、今日の「私はあなたがたを遣わす」という言葉です。

  福音、キリストをこの世へ持ち運ぶわけです。時々麻薬の売人や運び人が検挙されます。増えているそうですね。教会の私たちも運び人です。ただ、悪い物でなく、大いに価値ある、佳き知らせの運び人であります。

  運び人は年齢によりません。性別や性格にも、国籍にも関係ありません。子どもも時に福音のかわいい運び人になります。キリストによって呼び集められ、その喜ばしい福音に触れた者は、誰でも、遣わされる所へ行ってそれを証しします。或いは、それを生きることによって証しします。信者も求道者もキリストを証しすることに制約はありません。

  昔シベリアに伝道したヨーロッパの宣教師がありました。ある地方に入ると、そこは儒教か仏教の影響が及んでいた地域でしたが、もはや言葉だけでは伝道できないと感じたそうです。なぜなら、その地方の人たちはキリストを知らないのに、キリストの言葉を生きているようなところがある。宣教師の自分よりもキリストに近いような気がする。それで自分は反省させられて、先ずキリストに従うという根本的な所から再出発したというのです。

  証しは確かに、生き方が伴わないと福音の効果が出ない場合が多いと思います。

                              (2)
  さて、イエス様は72人を任命して遣わされた時、2人ずつを組にして、ご自分より先に遣わされたと書かれています。12弟子以外に72人を選んで派遣されたのです。

  72人ですから、2人一組、36組を作って、ご自分が行くつもりの36町村以上の町を先に回らせられたのです。

  2人一組というのは賢明です。1人の方が気は楽だということもありますが、ケンカしないなら、互いに補い合えます。ええ、ケンカしないならです。コヘレト書に、「一人よりも2人がよい。共に苦労すれば、その報いは良い。倒れれば、一人がその友を助け起こす。一人が攻められれば、2人でこれに対する」などとあります。確かにそうですね。

  2人一組で遣わされるのは、伝道は個人プレーではないからです。伝道は主のみ業です。その誉れは個人にではなく、主にのみ栄誉を帰すことです。それを、2人が協力するとうまく行きます。

  協力とは、互いに欠けを負い合うことです。無論長所を更に伸ばすこともありますが、欠点を補い合う。すると強いです。欠点が返って強さになり、協力し合って生きる美しい協同の美しい姿を生み出します。彼らの間に赦しが存在しているという素晴らしいものをもたらすのです。それはキリストの弟子であるということの証しです。2人の協力の素晴らしさは、互いに受け入れ合い、認め合い、大らかに赦し合っているという事実が起こっている素晴らしさです。それが福音の説得力になるからです。

  暫らく前に申しましたし、当たり前のことですが、キリスト教徒は完全な人間ではありません。不完全さを覚えている人間です。私などは全く不完全です。不完全だが神に赦され、愛されていることを覚えています。

  人間というのは、真直ぐ歩いているのにいつの間にか曲ってしまうのです。それが罪だと宗教改革者は語りました。既に曲がっているのに、本人は曲っていることに気づかないことすらあります。むしろ真直ぐ歩いていると確信していることがあります。その確信が強ければ大変になります。それで、誰の目にも曲がっていると分かられているのに、自分は絶対に曲っていないと言い張ることすら起こります。顔を真っ赤にして言い張る。そんなことが起こります。今回の原発事故でも、どれだけ曲っていないと、原発は安全だと言い張って来たかという事が、今問われているのではないでしょうか。私はこれまで何回もあちこちの原発を見学し、プルトニウムを燃やす高速増殖炉もんじゅ」も見学しましたが、どこに行っても口を揃えて「絶対安全だ」と言われました。君たちは疑い過ぎだ、色つきの思想で見ちゃあダメだ、「文殊」は、仏教の仏の中で最高知識の仏だ。絶対安全だなどと言われました。

  だがこれは原発推進者だけでなく、私たちすべての人間について言われることであって、人間は幾ら真直ぐ歩いてもいつの間にか曲っている。自分では分からない。そういう罪に満ちた人間を、「私」を救うためにイエスが来られたのです。人が、「私が」救われるには、神の子が十字架に掛けられて犠牲になるしか、他に道はないと神は考えられたのです。十字架自体が人間の罪をあぶり出していますが、イエスが私たちの身代わりになって罪を贖うしか、私たちを救い出す道はなかったのです。

  だが一体、自由に、無償で、タダで神の赦しを貰っていいのでしょうか。私たちに代償が、代価が必要なのではないでしょうか。ところが、イザヤ書55章1-3節にあるように、全くタダで、値なしに下さるのです。

  ところで、2人づつ遣わされることが大事なのは、自分の罪を言い表わす中で、自分が妨げになっているのでないかと反省したり告げたりする中で、和解が生まれて行くことです。いや、自分こそそうじゃあないかと思っていたんだと、相手も素直に自分を出して、赦し合うペアであるということです。それが共同体の原点だということです。イエス様は、共同体の原点として、和解し合った二人を一組にして、社会に派遣されたのです。これは社会生活をする上にも非常に大事な意味を持っています。

            (つづく)

                                        2012年5月20日


                                        板橋大山教会   上垣 勝



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