大きな希望と小さな希望


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                                         大きな希望と小さな希望 (上)
                                         Ⅰテサロニケ4章13-14節

       
                              (1)
  先程の13節に、「既に眠りについた人たちについては…」とありました。丁度今日は午後に墓前礼拝を予定していますので、この、先週の続きから福音を聞こうと思います。

  この手紙が書かれたのは、新約聖書の中で一番早く、西暦50年の夏頃と言われています。テサロニケ教会が生まれてまだ1年程しか経ちません。若い教会にも拘らず、「既に眠りについた人たち」が話題になっているのは不思議です。考えられるのは、パウロによって初めてキリスト教に触れ、信仰に入った人たちの中に高齢の人たちがいて、間もなく亡くなったということです。

  ルカ福音書に、シメオンというかなり高齢の人が幼子イエスに出会った時のことが出て来ます。彼は、両親がエルサレムに宮詣に連れて来た幼子イエスを見るや、腕に抱いて、「今こそ、あなたは僕を安らかに去らせて下さいます」と神を賛美し喜んだと書かれています。そのように、パウロの宣教で、高齢の何人かが信者になって、信仰の安らかさ、キリストによる平和を与えられて亡くなっていたのかも知れません。

  もしそうなら、長いこれまでの人間関係や生活習慣から抜け出して、よくぞ決断して信仰に入ったと思います。衝動的に入ったのでなく、ここにこそ真理の神がおられる。イエスはまことの救い主、裁き主、世界の王という確信を持って、心を固めて信仰に入ったに違いありません。また異教社会からキリスト教に入る場合、何らかのハードルを越えて入った筈で、それは今も2千年前も変わらないのではないでしょうか。

  彼らは、これまでの価値観や社会的名声を捨てることも必要だったかも知れません。家族や親戚、子どもたちとの価値観の違いが明らかになることが迷いになった人もいたでしょう。だが彼らは、それを越えて踏み切ったのです。確かに命の新しい芽が育つためには、麦の種は自分に死ななければなりません。その芽が中にあっても、決断しなければ新しいものが生まれ出ないのです。彼らはその一歩を踏み出したのです。

  福音書に、ある時一人の女性が声高らかに、「何と幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房」と言ったとあります。それを聞かれたイエスは、「いや、そうじゃあない。幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である」とおっしゃったのです。

  イエスは、ご自分と母マリアとの親子関係よりも、神の言葉を聞いてそれを守る人の方が遥かに幸いだと言われたのです。イエスは親子関係、肉親の絆を越えておられます。これは親子関係や肉親の絆の否定でなく、その重要性は別の所で語っておられますが、神の言葉を聞き、自立した一人の人間として神の前に決断して行くことの更に大切なことを、ご自身の親子関係で示されたのです。

  親子関係は決して神との関係のような永遠ではないからでしょう。真理は情を越えているし、神との絆は情を越えるという存在の本質に遡ることです。越えているから、晩年を迎えているテサロニケの人々が、自覚的にキリストを信じる決断をしたのです。

  また当時は、難しい病気になれば治療法は中々ありません。伝染病も多い時代です。パウロも難病を抱えていました。若者でも急に病気で死を迎える事も珍しくない時代です。つい50、60年前の日本でも似た所があったのではないでしょうか。そう考えると、「既に眠りについた人々」の中に、若者も含まれていたかも知れません。

  もう一つ考えられるのは、殉教です。テサロニケの迫害も酷かったですから、殉教で亡くなった人たちがいたかも知れません。

                              (2)
  いずれにせよ、「既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいて欲しい」と語って、「イエスが死んで復活されたこと。」また、イエスを信じて亡くなった人たちをも、神はイエスと一緒に死の中から導き出して下さると、語ったのです。

  今日は、「大きな希望と小さな希望」という題ですが、イエスが復活されたこと、キリストが死から甦られたという復活信仰が、私たちの大きな希望であり、そこから私たちに小さな色々な希望が生まれて来る。小さな希望と一応は言ってはいますが、これも信仰者にとっては本質的な希望ですが、このような希望が私たちにも授けられるということをお話ししたいのです。

  キリスト者とは何者でしょう。それは希望へと召されている人々です。キリスト者は絶望とか、失望とか、不信とか、疑いとか、闇とかに召されていません。希望以外のものに召されていません。前途には希望があるのです。

  それはキリストが復活して、すべての闇の諸権力、死の諸力に打ち勝たれたからです。ここに最も大きな希望があります。希望はこのお方から勢いよく湧き出ています。

  色々な悩みや障害があり、苦労を持つ方があるでしょう。地上では解決できない難問を抱える方もあるかも知れません。先程の交読詩編は、最初に、「心挫けて、主の前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩」とありました。深刻な苦難が彼を襲っていた様です。「私の生涯は煙りとなって消え去る」ともありました。お先真っ暗とは、このような状況でしょう。

  去年の自殺者に若者が増加したことが報道されていました。心挫け、お先真っ暗になっている人が、非常に多くなっている時代です。

  イエスが、「あなたがたはこの世では悩みがある」と言われるのは、私たちの抱えるこのようなあらゆる問題、挫折や苦労、悩み、それらすべての暗い事柄を心配し、よく知って下さるからです。

  だが、キリストにある時には、人間は復活の希望へと召されて行くのです。復活に希望の根拠を置く時、世の悩みや苦労にも拘らず、それらを越えて希望へと召されるのです。この方から出発する時、私たちは足元に希望が生まれます。クリスチャンだけでなく、人間は、この方を根拠にする時、希望が見えて来るのです。

  「希望を持たない他の人々のように嘆き悲しまないために」とありましたが、この希望は世の成功者や権力者からでなく、神に打ち砕かれた苦難の僕、十字架に付けられ、裁かれたお方が、復活し勝利されたから希望があるのです。この方に目を向ける時に、望みなき時にも望みが起こって来るでしょう。

  イエス・キリストは、私たちの希望の一切の始まりであり、一切の終わりであるお方です。このお方が授けられる希望は究極のもの、最後のものに向って進み、イザヤ書が語るように、「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」とある通り、希望は決して終わることはないでしょう。

         (つづく)

                                        2012年5月13日


                                        板橋大山教会   上垣 勝



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