落ち着いた生活を


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                                          落ち着いた生活を (下)
                                          Ⅰテサロニケ4章1-8節


                              (2)
  パウロは次に、「そして、私が命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、誰にも迷惑をかけないで済むでしょう」と書いています。

  小市民的な、内向きの安全志向を説いているのではありません。そうではなくて、異教世界の真っただ中にあって、外部の人たちから要らぬ中傷を受けないためです。神の御名が傷つけられないためであり、異教社会でキリストを積極的に証しすることができるためです。

  「落ち着いた生活をし」とあるのは、原語では静かな生活です。ゆったりした穏やかな生活、地味な生活も指します。地に足がついた人生と生活。当時も、ワーカホリックな仕事人間がいたでしょうか。ワーカホリックになると考えものですし、ワーカホリックにしてしまう社会はもっと考えものです。だが、仕事に打ち込む生活自体は、必ずしも落ち着いた生活と矛盾しません。パウロはむしろ、「自分の仕事に励み」と勧めているように、身を入れて仕事に励むことは彼の勧めるところです。

  「落ち着いた生活」は、深い意味では、キリストによって受け入れられ、神に義とされることから生まれます。神に受け入れられ、神の前に義とされる。そういう人生と存在の根っ子の事柄が解決される時に、本物の落ち着き、地に足ついた生活が始まります。真に「落ち着いた生活」というのは、神に基礎を置く生活です。人間として生きる確かな根拠と基盤をもった生活である時に、平和と共に「落ち着いた生活」が生まれます。

  人間はそのままだと世界に投げ出された存在です。飼い主のいない猫のように、うろつき回っているだけ。食べて、寝て、働いて、食べて、寝て…。神との真のつながり、神との間に和解という正しい関係がないと、自分自身との和解という自身との正しい関係も生まれず、心の平和も本当のところ生まれません。そこではパウロのいう落ち着いた生活でなく、それと似て非なるもの、世の因習と欲望に倣った生活や習慣的に人に迎合した生活をだらだら続けることになります。

  しかし、キリストの平和は、私たちに真の「落ち着いた生活」を作り出すのです。因習に縛られない、必要な時にはそれを打破して行く、新しい創造的な生き方が創り出されるのです。

  それは当然、「自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と勧められているようなあり方を、心から願うようにするでしょう。

  「自分の仕事に励み」と訳されている言葉は、本来は「仕事」について言っていません。「仕事」という言葉はありません。自分自身の事柄、自分に与えられていること。すなわち神が自分に求めておられることを指しています。神の呼びかけです。それに励みなさいと言っているのです。

  能力や賜物、力には自ずと差があります。しかし、その差から来る不条理の感情を乗り越えて、神が自分に求めておられるものに応えて生きる。すると、満足が与えられ、喜びが授けられるのです。人との比較でなく、自分に神が求めておられることに打ち込んで行く。その事が大切です。

  私は、若い頃は賜物の大小が大変気になりましたが、最近は、その大小は一種の性格の違いのようなもので、それほど重要ではないと思うように変えられて来ました。それより、「あなたがたは世の光である。地の塩である」と言われたことを、自分なりに生きればいいのだと思っています。

                              (3)
  最後に、「そうすれば外部の人々に対して品位をもって歩み、誰にも迷惑をかけないで済むでしょう」とパウロは語りました。

  「品位」とあるのは、優雅さ、高貴さ、品位のことです。ただ、「品位をもって歩む」とは、いわゆる品(ひん)のいい生き方でも、品(しな)のいい仕草でも、品(しな)を作ることでもありません。人生の内容的であり質です。物質的・経済的な生活の品質でなく、生き方の質です。何を目指し、何を目的として人生を歩むのか。人生の目的意識です。人生は当然、人との競争ではありません。イギリスの詩人ワーズワースは、「生活は簡素に、思想は高く」と語りましたが、高い方(かた)を仰いで、その方(かた)に応えて行くことです。

  巡礼というと、日本では四国八十八か所のお遍路巡りですが、世界ではスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ教会への長い巡礼道が有名です。青年たちが、800kmとか1000km、それ以上のコースを何カ月もかかって巡礼しています。

  そういう巡礼も素晴らしいと思いますが、私は日常生活こそ人生の巡礼だと思っています。人生は、いい仕事をし、お金儲けをするのが主たる目的でしょうか。人生の巡礼においては、まことの神に出会い、それが起点になって仕事に目的を与えられて打ち込んで行く。またその巡礼において自分自身と出会い、他の知らない人々とも出会って、人生の視野を広げられ、更に神が自分に求められる事に関わって行く。そういう巡礼の中で人生を究めて行く。それが、神から一回限り与えられた機会としての人生です。

  病気がちの人も、生まれつき障害を持つ人も、普通の人も、それぞれが自分の十字架を負いながら、生き方の内容、人生の内容を深める在り方です。そしてそれは、巡礼と申しましたが、永遠に真実な方、キリストとの真実な出会いによって真実になり、深められて行くものです。

  別の観点から申しますと、私たちは社会で生きていますが、それだけだと誰しも社会に流されやすいのが人間であり、流されっぱなしになる恐れもあります。

  しかしキリスト者は、永遠との関係、神との関係の中で生きています。永遠という縦軸と、この世の人々、社会で生きるという横軸。その交わるところで生きるのがキリスト者です。縦軸を欠いても、横軸を欠いても品位をもってこの世を歩むことになりません。

  現代人は肝心の神を置き忘れ、垂直な軸を忘れて、大量に物を生産して稼ぐことにだけ精を出し過ぎていないか。そのような社会を作っていないか。そのために座標軸がなくなり、永遠なるお方との関係がなくなってしまって、真に落ち着いた生活が生まれず、品位を持って歩むことがお座なりになっているのでないかと思わせられます。

  芭蕉は「不易流行」ということを申しました。時代の流行に左右されない本物との関係を持って今を生きる時に、人間の品位が生まれるということです。品位自体はいいのですが、この永遠なる方との関係の中で私たちは生きなければならないと思います。それが人生という巡礼を意味あらしめる在り方だと思います。

        (完)


                                        2012年5月6日



                                        板橋大山教会   上垣 勝



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