足を洗っていただくために教会に行く


(写真をクリックすれば拡大)         メルシェルの2階も居心地がいいです
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                                         主に招かれた者の生活 (下)
                                         Ⅰテサロニケ4章1-8節


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  こう考えて来ると、自分にもそのような要素があるのでないか、そういうことがあったのでないかと心に戸惑いを抱く人があるかも知れません。信仰を持っても汚れた所はなくならないのかと、信仰そのものに失望するかも知れません。

  パウロはそういう事も承知しています。承知の上で、「神のみ心は、あなた方が聖なる者となることです」と語るのです。これは2様に取れる言葉です。1つは、信仰を持てば聖なる者になるべきである。その事を神は望んでおられる。もう1つは、これは神の最終の御心であるということです。終末的な御心は、「あなた方が聖なる者になることです。」それ以外ではないということです。違いがお分かりでしょうか。神は最後的にはそこに行き着くことを願っておられるが、今地上で「聖なる者」になるということでも、信仰を持てば即、聖人になるということでもないということです。私は後者の意味に取っています。

  完全な者に変化できればそれに越したことはないでしょうが、地上で完全な者に変化したとなれば必ず傲慢やうぬぼれが生まれるでしょうし、それは完璧を演じる偽善者になるだけです。ここで語られているのは、神の最終の御心は、「あなた方が聖なる者になること」だということです。洗礼を介して、聖でなかった人間が聖なる者に一変するのでなく、聖なるお方、神、キリストと関係づけられ、聖なる方に結ばれた者として今を生き始めることです。

  昔は機関車が沢山の貨車を引っ張っている姿をよく見かけました。20輌、30輌の貨車を延々と引っ張っていて、子ども時代にそれを見るのが楽しみでした。夕暮れ時に、野原かどこかからそれを見ていると、自分がどこか遠くの地とも繋がっているというか、まだ見たことのない社会がどこかにあるというか、見知らぬ地に誘われたいような思いへと、想像が掻き立てられて胸が熱くなる気持ちで呆然と貨車を眺めていました。

  ちょっと横にそれましたが、機関車に重い貨車が幾つも連結されて引っ張られ運ばれるように、「キリストに結ばれる」時には、キリストに引っ張られ、導かれ、キリストの方向へと人生が方向づけられるでしょう。この方向づけが大事です。

  この方向づけがなされる時、たとえ私たちの内面に悪や罪が恐ろしい顔を現わすとしても、そこで私たちはキリストに結ばれる方向へと自分を押しやるのです。

  宗教改革者のルターに、時々悪魔が襲ったと言います。だがその時彼は、「悪魔よ、退け」と言って、悪魔に向ってインク壺を投げたと言います。方向づけられている時、一時道が分からなくなっても、再びその方向へと進むことができます。

  ですから、私を聖なる者へと導いて下さいという祈りを持つことが必要です。この祈りを持たないと、また礼拝から遠ざかると神との関係が切れちゃいます。しかしこの求め、この切望を持ち続ける時には、遅々とした歩みであっても、必ずキリストが頂上まで導いて下さるでしょう。

  隅谷三喜男さんが亡くなられて5年が経ち、昨年、シンポジュウムが何回かにわたって開かれました。隅谷三喜男さんはご存知の方もあるでしょうが、五味川純平の「人間の条件」の小説、映画の主人公のモデルだと言われます。戦前に満州にいた頃の隅谷さんがモデルだと言うのです。一時五味川さんは満州で隅谷さんと同じ会社にいました。

  隅谷さんは戦前の東大出のエリートですが、満州時代に、出来るだけ底辺にいて中国人の実情を知ろうと、中国人の家に下宿したのです。日本人でそんなことをする人間などいませんから、それからでも隅谷さんの人柄が想像されます。

  やがて戦後は、東大の経済学部長などをなさり、定年後は東京女子大学長や日本労働協会会長や平和7人委員会のメンバーになったり、多方面で活躍されました。成田空港紛争の解決のため、誰も手をつけられない中、尽力されて、キリスト者として社会に大きな貢献をされました。

  労働経済がご専門でしたが、若い頃からのもう一つのテーマは、日本社会におけるキリスト者のあり方、社会の中でキリスト教徒はどうあるべきか、「信徒の神学」を模索して来られた方です。それで、信徒の信仰生活において、最後の晩餐でイエスが弟子たちの足を洗われたことを重視されたのです。

  どういうことかと言いますと、イエスが弟子たちの足を洗われた時、弟子のペトロは、「私の足を洗わないで下さい。もし洗うんでしたら、手も頭も」と言ったのです。するとすかさずイエスは、「私があなたの足を洗わなければ、私とあなたの関係がなくなる」とおっしゃいました。

  これが信徒の信仰生活で大事だと言われるのです。というのは、この世を歩く時には足が汚れるからなのです。確かにこの世は汚いことが一杯です。そこで生きなければならないのだから、汚れてしまうわけです。「だから礼拝堂に来て、繰り返し主イエスに足を洗って頂く、幾度も洗って頂くのです」と言われるのです。どこにも驕(おご)りがない、謙遜です。

  しかしまた、「イエスに足を洗って頂き、洗って頂くからこそ、どんどんこの世の色んな場所にまで出掛けることができた」というのです。

  先ほど申しましたが、完全な人間になることがキリスト者の目的でなく、繰り返し足を洗って頂く人間。一生涯、足を洗って頂きながらこの世の中を旅する。それがキリスト者であり、キリストに結ばれた者、キリスト教徒という人間だということです。

  今日、あちこちで人間が荒れています。社会がそうですが、荒れた人間が目立って来ました。こころが荒れているのでしょう。無論そうでない人は多いですが、これまでなかったような荒れた人に出会います。そういう中で、聖書は非常に今日に必要なことを語っています。ちょっとコンテキストは違いますが、「汚れのない心と尊敬の念をもって」人々に当たるということもその一つです。今日こういうことが本当に必要です。また、ペトロの手紙にありますが、「穏やかに敬意をもって」人と接する。社会がすさめばすさむほど大事になります。

  これらはキリストに結ばれる中で生まれるのです。キリストがそういう方向に押し出して下さる。ですから内発的なものとなって現われるのです。マニュアルではありません。内側から出て来る。そういう自発的なあり方が、生き方が今日大変大事なことになっています。

        (完)


                                        2012年4月29日


                                        板橋大山教会   上垣 勝



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