内面に蠢(うごめ)くもの


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                                         主に招かれた者の生活 (中)
                                         Ⅰテサロニケ4章1-8節


                              (2)
  さてパウロはこのように語った後、3節で、「実に、神のみ心は、あなた方が聖なる者となることです」と述べて、「みだらな行いを避け」とか、「情欲におぼれてはならない」と語って、性的な問題に重点を置きながら、「聖なる者となる」ように告げています。また7節でも、「神が私たちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」と書きました。そして、「これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、ご自分の聖霊をあなた方の内に与えて下さる神を拒むことになる」と語っています。

  「これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく…神を拒むことになる。」パウロは性の問題をどれほど重視していたか、或いは重大なことと考えていたか、この言葉から窺われるかも知れません。

  なぜそんなに性の問題なのかと言いますと、テサロニケにしろ、コリントにしろ、アテネにしろ、ギリシャ多神教の世界の性的頽廃は相当なものであったからです。彼らは性を謳歌しましたが、性的頽廃がどれほど人を苦しめていたか。欲望を追求し、更にもっと、もっとと目指したようです。あくなき欲望の追求です。例えば、美食の追求のことで言えば、彼らは美食の追求のために、食べては吐き出し、吐いては更に食べ、また吐いては更に旨いものを食べ、美食の欲望を思う存分限りなく満たそうとしたのです。

  情欲も同じでした。欲には切りがありませんが、それを心ゆくまで、浴びるほど満たそうとしたのです。今日の日本でも似ています。もっと酷いでしょう。

  パウロは、「神のみ心は、あなた方が聖なる者となることです」と語った後、「すなわちみだらな行いを避け、各々汚れない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです」と書いています。どうして突然妻との生活を言うのかと言うと、結婚した男性が、奥さんがいながら外で女性関係をもっている訳です。それが男の甲斐性だと言って聞かない訳です。ですから、パウロはそういう神を知らないギリシャの異教的なあり方を離れて、妻との結婚生活、家庭生活を大切にしなさい。「汚れのない心と尊敬の念をもって」奥さんを労りなさいと勧めているのです。

  情欲に引きずり回され、タガが外れ、けじめがなくなり、泥沼に陥っている人が今日大勢います。今日では女性もそうなりつつあります。それが自由を謳歌することだと勘違いしています。時代の風潮に乗せられている。だが本当は自らの首を絞めることになるのです。

  6節に、「このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません」とあります。これは信仰の兄弟のことでしょう。なぜ、信仰の兄弟とでそんなことになるのでしょう。

  人間はたとえ信仰をもち、クリスチャンとして教会に属する者になっていても、神を侮って、残念ながら自分の内面を悪の力に明け渡すことになる場合があります。本当にあります。すると、とんでもないことになります。これは誰しも注意すべきことです。

  何故こんなことが言われているかと言えば、キリストに結ばれていたのだが、神を侮って、情欲の欲するままに生きてしまい、それが自分だけでなく、信仰の兄弟をも踏みつけて、厚かましくも信仰の兄弟の妻と関係をもったり、妻を奪ったり、そのために欺いたり、という所まで発展することがあったからです。タガが外れると、人を欺き、騙し、親しい人の家庭をも性的に侵害して行くことがあったのです。

  落とし穴はあちこちにあります。ある教派の教会で、牧師が何と信者の妻と関係を持ち、複数の女性の教会員とも関係を持ったということが実際にありました。複数の女性が相手です。彼らは互いに牧師に気に入られようとして競い合った。その牧師は才能豊かで魅力的だったようです。それが災いした。誘惑と落とし穴はあちこちにあるのです。

  神聖な人間とか、神聖な場所とか、聖域というのはないのです。聖職も聖域も俗になり、俗以上に俗っぽいものが入って来るのです。

  パウロは人間の内奥に巣食うドロドロしたものを知っていたのです。実に陋劣(ろうれつ)な賤(いや)しいものが蠢(うごめ)いてます。ですから、これらの警告を拒むこのような振る舞いは、「人でなく、神を拒むことになる」と警告したのです。

  こういうことは、経済的取引で相手を騙(だま)したり、相手の権利を奪ったりということにも発展しかねません。今日では、公金をごまかすとか、障害者のために集めた義捐金にさえ手を出すというようなことになりかねませんし、その他思いがけない色々なものに発展するでしょう。

  J.バニエという人は、「自分の内奥を悪の力に明け渡してはならない」と言っていますが、本当にそうです。明け渡すなら、それは私たちの内側で所を得たとばかり狂暴な力を振るうことになるでしょう。性の問題でなくても、憎しみという激情に自分を明け渡すのも同じです。怒りは煮えたぎります。猛烈に燃え盛ります。人間は弱いのです。真に自分の罪の深さを知らなければなりません。でなければ、自分を傷つけるだけでなく、兄弟も踏みつけ、欺くことになりかねないのです。


        (つづく)


                                        2012年4月29日


                                        板橋大山教会   上垣 勝



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