柔軟な中に芯を通す
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主に招かれた者の生活 (上)
Ⅰテサロニケ4章1-8節
(序)
今日の聖書の冒頭に、「兄弟たち、主イエスに結ばれた者として私たちは更に願い、また勧めます」とありました。この「主イエスに結ばれたものとして」という言葉は、ギリシャ語では「エン・クリスト―」という言葉が使われています。
これはパウロがよく使った言葉で、このテサロニケの信徒への手紙でも、既に1章1節で、「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ」とありました。また、3章8節で、「あなた方が主にしっかりと結ばれているなら、今、私たちは生きていると言える」とあります。また、4章16節でも、「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し…」とありますし、5章12節で、「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ…」とあります。
「エン・クリスト―」という言葉は、直訳すれば「キリストにあって」ということです。前の口語訳聖書は「キリストにあって」と訳していました。しかし、パウロは「エン・クリスト―」という言葉に特別な意味を込めていますから、新共同訳では彼の意を汲んで、「主イエスに結ばれたもの」と訳したようです。確かに意味がはっきりしました。
(1)
さて、今申しましたように、パウロは1章1節でテサロニケの信徒たちを、「神と主キリストとに結ばれている」人たちと書いたわけですが、今日の個所ではパウロは、自分たちを、「主イエスに結ばれた者として願い、勧めます」と、今度は、自分たちをキリストに結ばれた者として書いています。
テサロニケ教会はパウロが基礎を築きましたが、彼がわざわざこう書くのは、テサロニケの信徒と自分たちは同じ源に根差していること、同じ土俵に立つ仲間であり、共通の源を持っていることを再度確認し合って、相手に願い、勧め、説得するためです。
彼は人間関係の基本をしっかりわきまえる人であったと言えます。例外はありますが、物事はやはり同じ土俵に立たなければうまく事が進まないのは、仕事においても、仲間内でも、家族でもイヤという程気づかされていることではないでしょうか。
その上で、「あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、私たちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けて下さい。私たちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っている筈です」と書くのです。
では、テサロニケの信徒たちはパウロから何を学んで来たか。振り返ってみますと、
① 1章にありましたが、パウロの宣教は、「ただ言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信によった」ということを先ず学びました。
キリストの言葉、十字架と復活の出来事が告げる真理が、パウロの生き方を貫き、その実存の深くまで貫いて、そこから全存在を掛けて語られる言葉であったということでしょう。彼はそのような魂の深みでキリストの出来事を捉えました。
しかも、それは自分に光を当てるのでなく、自分は黒子のように無になって、ただキリストにのみ光を当てる為に存在を掛けていたということです。
そのため、テサロニケの信徒たちは、酷い迫害の中にも拘わらず、聖霊による喜びをもって大胆にみ言葉を受け入れ、主に従う者として、困難な異邦人社会の中で、信仰を証ししました。
② また2章で書かれていたように、パウロたちはテサロニケに来る前は、フィリピで苦しめられ、辱められましたが、ですからかなり落ち込んだ筈ですが、それでもテサロニケにおいて激しい苦闘の中で神の福音を語ったのです。人に喜ばれる為でなく、神に喜ばれる為に大胆に語りました。彼は人間の誉れを求めなかったのです。むしろ自分の命を与えたいと願う程に、人々の僕となって働きました。
こうしてテサロニケの人たちは、パウロの言葉を、「人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」のです。その為に、彼らの中に、雄々しく、神に生きる信仰が現われました。
③ その結果、テサロニケ教会は「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信徒の模範となるに至った」のです。マケドニア州とアカイア州というと、ほぼギリシャ全土を覆う地域です。彼らはギリシャ社会で、キリスト教信仰の模範とも言える群れとなって、まさに神とキリストに結ばれた人たち、神に選ばれた人たちだと、至る所で伝えられるようになったのです。
そのような訳で、今日の所でパウロは、「どうか、その歩みを今後も更に続けて下さい」と願ったのです。
「その歩みを今後も更に続ける」ことが大事です。初心を持ち続けることです。教会で結婚式を挙げて、毎年結婚記念日頃に教会に来るカップルがありました。やっぱりうまく行っているんです。初々しい最初とはだんだん違って来ますが、最初の意志が貫かれている。これはどんな分野でも言えることですが、信仰においても堅忍不抜であること、堅忍不抜の信仰は大切なことです。肩を張る必要はありませんが、柔軟な中に芯を通す堅忍不抜さです。
そのことは先ほどの、日本基督教団の役員任職式の式文の中でも説かれていた通りです。
(つづく)
2012年4月29日
板橋大山教会 上垣 勝
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