光が未来から届いています


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                                           パウロの祈り (下)
                                           Ⅰテサロニケ3章11-13節


                              (3)
  パウロは更に祈りました。「私たちの主イエスが、ご自身に属する全ての聖なる者たちと共に来られる時、あなたの心を強め、私たちの父である神のみ前で、聖なる、非の打ちどころのない者として下さるように、アーメン。」

  「主イエスが…来られる時」というのは、キリストの再臨の時です。イエスは再び来られる終末の時です。その時に、「聖なる、非の打ちどころのない者として下さるように。」愛が豊かにされるだけでなく、「聖なる、非の打ちどころのない者」となることへの祈り。大変なことを祈っていますね。

  これはどういうことでしょう。神だけが非の打ちどころのない方ではないでしょうか。神だけが聖なる方ではないでしょうか。一体パウロは何をテサロニケの人たちに求めているのでしょうか。

  パウロがしていることは、あなた方は「聖なる人になれ」とか、「非の打ちどころのない者になれ」という祈りではありません。そんなことは逆立ちしてもできません。先週の高橋大輔のフィギュア・スケートは実に安定していて、表現力もあり、非の打ちどころがない演技でしたね。スポーツの世界ではたまに完璧とも言える技が出ますが、人間として非の打ちどころのない者なんていません。いますか。いないと思います。

  パウロはここで祈っていることは、キリスト者は前方に向う人だということです。私たちは信仰によって生きています。神によって義とされ、平和を授けられて生きています。そして、今ある喜び。今ある恵みに与っています。

  だがキリスト者は、それだけでなく将来に向かう希望の光で生きているのです。いや、将来から現在に届いている希望の光の中で生きるのです。再び来られるキリスト。再臨のキリスト。終末から現在に向って、神の国から、キリストから差している希望の光に照らされて生きているのです。

  昨日、ある絵画展に行きました。時々礼拝に来られるAさんは長く毎年日展に入選されていますが、今度は別の展覧会でも特別賞を取ったのです。それで招待状を頂いて行って来ました。素晴らしい作品でした。その展覧会の色んな作品を見ていましたら、ヒマワリの絵がありました。ただ花が終わり、種ができ、首が重くなって枯れて倒れている何本もの年老いたヒマワリです。実際には醜い姿でしょう。ところが画家の目で光を当てると、その醜い老いた姿が素晴らしい美に転化しているのです。私たちにも、キリストの目が注がれ、キリストの光が照らされているのです。希望の光が私たちに射しているのです。

  だからその光に照らされて、神よ、この人たちをやがて聖なる者にして下さい、非の打ちどころのない者にして下さいとパウロは祈るのです。だが、そうしてくださるのは神様であって、神の業であって、人がそれを装ったり、背伸びしなければならないことではないのです。

  今はキリストにありながらも、肉体を持ち、色んな欠点を持ち、自分でも悲しくなるような失敗を冒し、恐れや罪に悩み、キリストに赦されて生きてはいるが、色んな心の痛みを抱えて過ごしています。肉の体を脱ぎ捨てようとしてもそれは叶わず、苦しみがあります。

  パウロは、「善をなそうと思う自分に、いつも悪が付きまとっているという法則に気づく」と語っています。気づいても、自分の欠点は中々直せません。だから、「私の五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則の虜にしているのが分かります。私は何と惨めな人間なのでしょう」と、彼は嘆きます。「私を、五体の内にある罪の法則の虜にしている」、「私は何と惨めな人間なのでしょう。」これはキリスト者が持ち、万人が持つ苦しみであり悩みです。特にその苦しみに悩み、気づいているのがキリスト者です。

  だが、「私たちの主イエスが、ご自身に属する全ての聖なる者たちと共に来られる時…私たちの父である神のみ前で、聖なる、非の打ちどころのない者として下さるように、アーメン。」

  このような将来への祈りを持ち、このような約束を前方に持ちながら歩むというのは、素晴らしいことではないでしょうか。今は明らかに破れがあります。一杯あります。しかし、やがて私たちを傷も汚れもない、非の打ちどころのない神の子として迎えて下さる。神によって義とされ、全く罪を贖われた者として受け入れて下さる。

  そのような将来が、この人生の先にあることを祈るということは、キリスト教が希望の宗教だということではないでしょうか。人生というのは、この世で終わらない。その先があるのです。未来へと、キリストにおいて希望の先へと続いているのです。

        (完)

                                      2012年4月22日


                                      板橋大山教会   上垣 勝



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