学問とエロース


                     フランスで去年流行ると今年日本でも流行りますね
                               ・




                                           パウロの祈り(中)
                                           Ⅰテサロニケ3章11-13節


                              (2)
  パウロは次に、「どうか、主があなた方をお互いの愛と全ての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせて下さいますように。私たちがあなた方を愛しているように」と祈りました。

  パウロは、主があなた方にお互いの愛と信者同士を越えて全ての人への愛を豊かに満たして下さるように、主が愛に溢れさせて下さいと祈るのです。

  主キリストの愛です。人間の愛は自分の好きな者だけを愛します。私たちはこれまで、気に入る者だけを愛する愛に、どれほど多く出会って来たでしょう。それは、気に入らぬ者は避け、憎む愛です。好きな者には観音様のような素敵な笑顔をしますが、そうでない者には憎悪の眼差しさえ注ぐのが私たち人間です。肉に基づく愛は、いつもそうです。

  それはエロースの愛だからです。それはアガペーの愛ではありません。所有の愛です。エロースというと性的な愛と日本人は考えますが、ギリシャ語のエロースには、例えば学問もエロースです。学者は自分のところに最善・最新の知識を取り入れ所有し、それを周りにふるまって得意になったり、商売したりしているでしょう。知の遺産とか、知的財産と言います。知識人をもてはやす現代社会ですが、この混沌とした社会になってはっきり発言できる知識人が少ないのは、その知識は自己保身のエロースだからです。エロースは当然自己保身にも通じているからです。エロースは所有の愛です。所有欲です。相手を自分の所に所有したいのです。ただ一旦相手が背くと、激怒し憎悪します。エロースは愛憎無限です。

  ですからパウロは、「主があなた方を、お互いの愛と全ての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせて…」と祈るのです。テサロニケ教会に人間のエロースの愛が満ち溢れても、それは教会を作らないからです。そういう教会もたまにあるでしょう。ただ、そこでは人間的愛が優先されて、機嫌を損ねてはならない誰かの顔色を窺わなければならないような歪んだ集団になります。それは病める教会です。

  しかし神の愛は全く違います。アガペーは全然違います。それは憎悪を越える愛です。好き嫌いを越えて愛する、意志的に愛する愛です。意志的に、愛することを選ぶのです。憎悪の感情を後ろに投げ捨て、出来にくいことですが、意志を持って、キリストの光に向って進むのです。

  ペテロはサマリアの町で、ある男に、「お前はまだ苦い胆汁があり、不義の縄目が絡みついている」と語りました。苦い胆汁、不義の縄目。それを後ろに投げ捨てて、光なるキリストに向って歩むのです。

  「お互いの愛と全ての人への愛」は、キリストによってこそ生まれますし、キリストに基づかなければ生まれません。キリストに基づかないと、愛が的外れになるからです。愛が、自分を愛してもらうための愛、自分の味方を作るための愛になり、愛と言いつつ実は自分、自分です。自分が無になっていない。「自分を捨てて私に従いなさい」とイエスは言われましたが、捨てられていない。「神の栄光のために」という所まで昇華していないのです。

  キリストに基づく時、愛は、教会のお互いの間だけじゃあなく、全ての人への愛へと広がります。内向きの、内向的な愛でなく、外にも開かれた愛になります。

  インドネシアのバリ島に古くから伝わる話があります。それは「木の天地を知る」という話です。それに触発されて、ほぼ同じ考えを弘前時代に聞いたのを思い出しました。

  私がいた教会に津軽凧を作る人がいました。津軽凧というのは、畳半畳、時にもっと大きい大凧です。普通凧は竹ひごで作りますが、向こうの凧は青森ヒバの木で制作します。ヒバの木は竹のようにしなやかで折れないのです。

  当然ですが、一本の木切れにも根の方と梢の方があります。木には天地があるのです。凧揚げは、古来の日本の風習では天に、神に捧げるものなのです。ですから、神に向って足を向けるようなことをしてはならない。木の根っこの方を向けるような形で凧を作ってはならないのです。それは神に対して無礼です。そのような者は無礼者です。天罰が当り、災いが来るというのです。言い伝えですが…。

  今、言いたいのは、私たち人間は神との正しい関係、永遠な方との、キリストとの正しい関係を持たなければ、天地が逆転する。天地が逆転するということは、人生と社会の根本が狂うということです。そして、人生と社会の根本が狂えば、何をしても、たとえ健康であり、裕福になり、地位を築いても、グルメの生活を堪能しても、結局マイナスである。人生全体、社会全体が的外れになるということです。永遠なお方との関係が狂えば人生の意味を失う。人生を失うのです。

  ですからパウロは、人間に基づくのでなく、キリストに基づいて、キリストが「お互いの愛と全ての人への愛と」を豊かに溢れさせて下さるようにと祈ったのです。

  「お互いの愛とすべての人への愛。」キリスト教の愛は、神との垂直的な関係がはっきりすればするほど、「お互いの愛とすべての人への愛」という水平的次元における愛となって、隣人愛、兄弟愛となって現われます。

        (つづく)

                                      2012年4月22日


                                      板橋大山教会   上垣 勝



       ・ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/ 

       ・板橋大山教会への道順は、下のホームページをごらん下さい。
                   http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/